なかったもの
記事一覧へ公開日: 2015/11/12
前回、ボクが放浪生活に突入したのは1997年7月27日だとお伝えしました。
1997年といえば携帯電話の普及率が、まだ19%しかなかったような時代です(※総務省のデータより)。ちなみに現在は普及率120%だそうです→1人で複数台持ってる人がいるため100%超。
パチスロ業界においては「ニューパルサー」や「クランキーコンドル」、「電撃あらっ太郎」などが人気を集めていた時代です。
個人的にはライバル客がゼロだった「フローズンナイツ」を追いかけていたわけですけれども、そんな1997年7月27日の時点で、まだ存在していなかったものを振り返ってみたいと思います。
【1】高額紙幣の入金が可能な台間コイン貸し機がなかった
今では当たり前になっている「高額紙幣も受け付けてくれるコイン貸し機」ですが、まだ当時は存在していませんでした。
(2015年撮影)
1万円札や5千円札が使えるコイン貸し機はなく、千円札しか投入できなかったんですよ。シマの中央か端っこに必ず両替機があって、そこで千円札を「作って」から遊技を始めたのです。
ついでに言うと、今ではパチスロ機1台につきコイン貸し機1台がセットで設置されてますが、1997年当時はパチスロ機2台につきコイン貸し機1台のパターンが一般的でした。しかもノズル(ゾウの鼻)つきじゃなく、がんばってコインを掴み上げるやつとか、カバーを持ち上げてコンコンするやつとか。
わかる?
となりの人がコインを借りる動作を完了させるまで、すこし待つこともあったんですよ。
逆に、となりの人を待たせてしまったりとか。
あるいは、となりの人が千円札を手に持ってプレッシャーをかけてきてる状態で、自分が入れようとしている千円札が何度も戻ってきちゃって、いったんあきらめて「お先にどうぞ」と譲ったら、その人が入れた千円札も戻ってきちゃって、みょ~~な雰囲気になったりだとか。
(´・ω・`)
いまいちピンと来ない人は、年配のスロッターに訊いてみてください。
【2】三重県のホールにはパチスロ機が1台もなかった
これはボクが漫画や記事で何度も紹介していますから、ほとんどの人が知ってると思います。
それまでパチンコしか置いてなかった三重県に初めてパチスロが置かれるようになったのは2000年(平成12年)の7月下旬。
CT機(アステカなど)や大量獲得機(大花火など)のヒットにより全国的にパチスロ熱がグングン高まっていたにもかかわらず、当時、三重県だけが取り残された格好になっていました。
三重県の遊技業組合の内部でも「そろそろパチスロを導入しよう」という声が上がりましたが、一部のホールが強く反対します。「パチスロ経営のノウハウを持っている県外のホール・チェーンが進出してくると、ノウハウに乏しいわれわれがダメージを受けてしまう」というのが理由でした。
一時は組合内部が賛成派と反対派に分裂する事態に発展したものの、ブームの兆しを見せていたパチスロというものを無視することができず、ついに2000年7月からパチスロ機の導入が解禁になった。という経緯です。
【3】静岡県のホールにはデータ機の類が1台もなかった
なぜか当時、静岡県にだけは台上データ機が存在しなかったんです。もちろん「データロボ」のような情報端末も店内に置いてはいけないことになっていたようです。組合の申し合わせか当局の指導によるものか、ハッキリしたことはわかりません。
店選びや台選びは、経験とカンが全てでした。
ただし一部のホールでは、手動式の掲示板(?)でボーナス回数を表示していることもありました。
バレーボールとか卓球をやるときに、ペラリペラリと数字が書かれたやつをめくって得点を表示するシステムがありますよね。あれの、ちっちゃい版です。
誰かがBIGボーナスを引くと店員さんが駆け寄ってきてペラリとめくるんです。この台はBIG×3発目です、みたいに。
そんな静岡県でしたが、2001年に入って全国的に獣王が大ヒットしたあたりで、ついにデータ機の設置が解禁されることになります。天井機能を搭載したパチスロ機が登場するなどゲーム性が複雑になり、データ機を確認してからでなければ安心して打つことができない空気が漂い始めたタイミングです。
4号機初の天井搭載機「キャッツアイ」(2000年11月頃登場)は前回のボーナスから1400G消化後のスイカフラグをきっかけにしてAR発動。
4号機の初代「獣王」(2001年1月頃登場)は前回のボーナスから1136G消化後のチェリーフラグをきっかけにしてサバンナチャンスが発動。
まあ、そんなことを知ったからといって、今どうなるってもんでもありませんけどね。そんな時代もあったよね、ということです。
バラエティーコーナーと低レート貸し、そしてサマンサ三吉先生の話は次回。
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