スピード野球ボール
記事一覧へ公開日: 2016/07/03
最初は純粋に「パチンコ発祥の地はドコなの?」と思っただけなんですけどね。
調べていくうちに色んなことが分かってきちゃって、途中で放り投げるわけにいかなくなってしまいました。ここで一旦、情報を整理してみましょう。
・じつは正村ゲージの正村竹一さんは名古屋ではなく茜部村(現在の岐阜市)で生まれ育った。
・パチンコのルーツは、どうやらイギリス生まれの「ウォールマシーン」っぽい。
・その「ウォールマシーン」が日本に輸入され、最初に設置されたのは大正12年頃の宝塚新温泉(兵庫県宝塚市)っぽい。
・日本で最初に出されたパチンコ遊技場への営業許可は昭和5年2月12日、名古屋市中区西脇町のHさん宅で、許可を出したのは愛知県警保安課。営業時間は夜8時から深夜0時までの4時間だった。
・そのHさん宅に置かれていた遊技機は、現代パチンコでは当たり前になっている「玉を打ち出し、入賞したら、また玉が出てくるシステム」とは違っていた。
・昭和10年頃までの『パチンコ』は、一銭銅貨を投入して、そのまま一銭銅貨を打ち出すか、あるいは一銭銅貨を投入すると玉が1コ出てきて、その玉を打ち、入賞すると一銭銅貨かメダルが2枚から3枚出てくるシステムの、いわゆる「一銭パチンコ」が主流だった。
あまりにも興味深いので、もうちょっとパチンコの歴史について勉強していきたいと思います。
教科書は、引き続き『パチンコミュージアムの図録』と、『天の釘――』の2冊です。
1927年
(昭和2年)
当時21歳だった正村竹一さんが岐阜から名古屋に移り、ガラス屋さんを始める。※まだパチンコとの関わりはない。
1935年頃
(昭和10年頃)
「皇室の御紋章の入った硬貨(=一銭銅貨)を遊びに使用するのは、けしからん」という理由で一銭パチンコが禁止される。
一銭銅貨の代わりに真鍮メダルを使ったメダル式パチンコが登場。
1936年頃
(昭和11年頃)
さらに、そのメダル式パチンコに代わり、現代と同じく「玉を打って、入賞したら、また玉が出てくる」システムの遊技機の誕生。考案したのは名古屋の藤井正一さん。
藤井さんが開発した遊技機の商品名は「スチールボール野球器」。名古屋市の円頓寺(えんどうじ)商店街に130台設置の遊技場(※当時としては、かなりの大型店)をオープンさせ繁盛したという。
じつは、この遊技機の盤面ガラスに使われたのが正村竹一商店が販売したガラス板だった。※正村さん、初めてパチンコと関わりを持つ。
その縁もあり、藤井さんが作った「スチールボール野球器」を導入するかたちで、それまでガラス商だった正村さんもパチンコ店経営に参入する。
正村さんが初めて開いたパチンコ店の屋号は『スピード野球ボール』。設置されたのは15台だった(その全てが「スチールボール野球器」だったかどうかは不明)。
(※画像はパチンコミュージアムの図録から引用)
店名の下に「沸騰 冷却 殺菌」と書いてあるのは、建物がアイスキャンディー屋さんも兼ねていたため。
あえて「パチンコ」という名前を使っていないのは、警察からの許可を得やすくするため。
ちなみに、この頃は子供も自由に遊べたらしい。
というわけで昭和10年から11年頃にかけて、また新たな人物が現れてしまいました。現代と同じシステムのパチンコ機を初めて開発し、130台設置の大型店を成功させた名古屋の藤井さんです。
そういう意味では、この大型店のあった場所も「パチンコ発祥の地」だと言えなくもないと思いません?
「パチンコ発祥の地」と書かれた大きな石碑を置くのは無理だとしても、小さなハタは立てることができそうです。
この「スチールボール野球器」については、もうすこし調べてみたいんですよね~。
(嗚呼、また続いてしまう…)
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