長篠城
記事一覧へ公開日: 2014/11/02
ぶらり飯田線&身延線の旅(3)
JR豊川駅に戻って再び電車に乗り…
《JR豊川駅》
8:24
↓
飯田線
↓
9:20
《JR長篠城駅》
およそ1時間後、「長篠の戦い」で知られるJR長篠城駅で途中下車。
ムリヤリお城っぽい雰囲気に仕立てあげた無人駅
駅前にあった観光案内図を眺めます
かつて長篠城があった場所付近が観光スポットになっている感じ
傘をさすほどでもない弱々しい雨が降るなか、古い街道筋を歩きます
歩き始めてちょうど10分、長篠城があった場所に到着しました
え~と、名波さん名波さん。
そろそろ、その、ちょいちょい姿をあらわすハダカの男性について説明してくれませんかね?
あと、長篠の戦いについてもできるだけ簡単に、わかりやすく説明してください。
それでは、まず長篠の戦いから説明しよう!
日本に鉄砲が伝わってから30年ちょい経った1575年、天下統一を目指していた織田信長は徳川家康をしたがえて進軍し、敵対する武田勝頼(=武田信玄の後継者)の軍勢と長篠城付近で対峙。
兵隊の人数が武田軍より多く、しかも大量の鉄砲を用意して戦いに臨んだ織田・徳川連合軍側の圧勝に終わり、その後の武田家の弱体化を決定的なものにした。
ちなみに、この戦いの7年後、1582年に織田信長さんは死去(本能寺の変)。
そこから、さらに426年後の2008年にはフィギュアスケートの織田信成さんが全日本選手権で優勝(天下統一?)。
はりつけになっているハダカの人の説明は、とても長くなってしまうので、最後に書きますね。
長篠城址・史跡保存館
210円を払って館内を見学しました。館内は撮影禁止。
戦国時代の歴史的資料がわかりやすく展示されてマス。
その後、お城が建てられていた場所を見学
うむっ。一度は来てみたいと思い続けていた場所ですし、満足です。近くにパチンコ店がないエリアなので、こういう機会でもないと、ね。
JR長篠城駅に戻り、今度は長野県の飯田市まで移動。
《JR長篠城駅》
10:24
↓
飯田線
↓
10:26
《JR本長篠駅》
11:59
↓
飯田線
↓
14:42
《JR飯田駅》
つづきは次回のブログにて!
●だん吉・エバの
おまけコ~ナ~!
はりつけにされている男性の名前は「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」さん。戦国時代に三河国(現在の愛知県東部)の氏族「奥平氏」に仕えていた足軽(兵士)です。
この長篠城がある地域は三河国(愛知県)と甲斐・信濃国(山梨・長野県)の中間にあり、武田軍にしてみれば三河を攻める際の足がかりとなる重要な場所でした。一方の徳川家康にしてみれば、三河を守るためにはなくてならない場所だということになります。
天正3年(1575年)、このお城の城主であった奥平氏は、それまで武田側についていたにもかかわらず、武田信玄の病死を機に武田家に見切りをつけ、徳川家康側に寝返ったのです。
これを見過ごすわけにいかない武田勝頼(=武田信玄の後継者)は1万5千の兵を率い、三河に向かって進軍。長篠城に到着します。
負けじと応戦した城主・奥平貞昌でしたが、1万5千の大軍に攻撃されては勝ち目がありません。ついには食料を保存しておくための倉庫を焼失し、いよいよ降参するしかないのかヤッベ~な、というギリギリのところで、三河の岡崎城にいる徳川家康に援軍を頼もうということになりました。そのとき、伝令の大役を買って出たのが鳥居強右衛門です。
夜陰に乗じて城から脱し、川を下るなどして武田軍に見つかることなく、およそ40km離れた岡崎城に到着。徳川家康に援軍を要請します。
すでに武田軍の動きを察していた織田信長は岐阜で家臣を集めて軍勢を整えたのち、三河に移動していました。つまり織田信長・徳川家康の連合軍は鳥居強右衛門から言われるまでもなく、もともと3万8千の兵を率いて長篠城に向かう予定になっていたのです。
これを知って喜んだ鳥居強右衛門は急いで長篠城に戻り、「援軍が来るから、それまではあきらめるな」と城主の奥平貞昌に伝えようとしますが、武田軍の目があるので、なかなか城に近づくことができません。
そうこうするうち武田軍に見つかってしまい、鳥居強右衛門は捕えられます。
武田軍から詰問された鳥居強右衛門はドヤ顔で「もうすぐ援軍がくるから、武田軍は終了」と教えてあげるのです。
これを聞いた武田軍は、あわてます。
やっべ、あの織田信長さんまで来ちゃったらシャレにならん
と。敵の援軍が到着してしまう前に、急いでカタをつけなければヤバイと。
武田軍は色々と考えた末、鳥居強右衛門に条件を出します。城主の奥平貞昌を始め、籠城している家臣たち全員の命は保障するから、そのかわり『援軍は来ないから、あきらめて降参するべし』というウソの情報を流せ、と。
立てこもって戦っている城主たちの命が守られるのであればと鳥居強右衛門は武田軍の条件をのみ、長篠城が見渡せる小高い丘の上に立ちます。しかし、すでに自身の死を覚悟していた鳥居強右衛門は、ありったけの大声で『すぐに援軍が来るからあきらめるな!もうすこしの辛抱だ!』と、武田軍との約束をホゴにして叫んだのです。
長篠城に立てこもっていた兵士たちから「助かった~」という安堵の声が上がりました。
武田軍は怒り、鳥居強右衛門をはりつけにします。彼は槍で突き殺されてしまいました。
その数日後、3万8千の軍勢を率いて応援に駆けつけた織田・徳川連合軍と戦い、武田軍は敗れました(武田勝頼は命からがら地元の甲斐国に敗走)。
長篠城は鳥居強右衛門の忠義心にあふれた行動によって守られたのです。
(後日談)
この鳥居強右衛門の行動に感銘を受けた武田軍の家臣・落合佐平次(おちあいさへいじ)は、のちに鳥居強右衛門がはりつけにされている姿を旗印の図案に採用し、戦場に立つようになりました。敵ながらアッパレということです。
佐平次の旗印(=戦場で自分の存在をアピールするために掲げる背の高いハタ)に描かれていたのが、この絵です↓
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