テンガイ宇土店
熊本県宇土市新松原町135
パチンコ・パチスロ特集
更新日: 2018/06/07
また日常の灯を取り戻すため!人々の気持ちを支える“癒し”の必要性
痛ましく見える潰れた社殿――。
まだまだ復興は難しい、とその姿を見つめながら60代の男性は語る。
益城町エリア、木山神社にて。
しかしながら、平行して進められていたのは“お祭り”の準備だ。
震災後の暗いムードだからこそ、求められる声も多いのだという。社殿が倒壊していても、人々は元気の源は必要になる。復興に向けての“気持ちの起爆剤”は必要なのだ。
「おし!」、一声の気合を入れて男性は作業へ戻っていった。
付近を見れば、社殿と同様、まだまだ“日常”とはいえない光景が広がっている。
被害の少なかった地域に比べれば、この町にいつもの日常が戻るのはもう少しかかりそうだ。
続く非日常――。
“だからこそ”復興への気持ちを絶やさないため、 “癒し”は求められている。
普段は“非日常”なお祭りも、このような時は状況が逆転する。
それだけに“娯楽”の与える心の充足の役割は大きい。パチンコもその一つともいえるかもしれない。
パチンコ業界関係者によれば、被害の大きかった熊本県阿蘇・益城町から離れた比較的被害が軽微で営業をすぐに再開したホールの稼働は上がっていたという。
パチンコも同じように心の支えになっている。
そう感じてやまないのは、以下の2例のパチンコホールの話からも窺える。
【ケースIII:《フェスタ宇土店》の場合】
~被災時の状況~ 被災時:通常営業中 住所:熊本県宇土市新松原町135番地 スタッフ・遊技客の被害者:0人 状況:通常営業中に被災。店長は外出中により不在。前震直後は、大きな被害が出る前に遊技客の退去完了。けが人はゼロ。最終的な被害は、パチンコ島の一部倒壊や、壁面損傷、天井パネルボードの落下など。 |
2016年4月14日21時26分――前震発生時。
A店長はその時外出先から店舗へ戻る車中。
パンクのような走行中の違和感に車外に出ると、それが地震だということにすぐに気付いたそうだ。
真っ先に頭に浮かんだ家族の顔。手に取った携帯電話で連絡をとり安否確認が取れると、すぐに店に向かったそう。
その日は早々に閉店準備にとりかかり、店内に残った手荷物を遊技客に返却していったという。
余震に警戒しながらの作業だったが、遊技客はもちろん、スタッフにも怪我がなかったことは不幸中の幸いだったと店長は振り返ってくれた。
この熊本地震で被害を最も大きくさせた本震は、前震から約28時間後の4月16日午前1時25分に起こった。
店長は妻子を避難させ、再び店舗に戻る深夜の車中だったそうだ。
もちろん前震時から店舗は閉めていたが、併設する従業員寮がある。真っ先にそこに住むスタッフから連絡が入った。
「店長、店に被害が出ています!」
電話越しに聞こえるスタッフの緊迫した声に店長は、急いで戻る。
到着した店舗では、崩落した天井パネルボード、一部倒壊したパチンコ島や割れたガラス類等、足の踏み場も無い状態だったそうだ。
被災時の店舗 写真提供:フェスタ宇土店
店長に電話をかけたスタッフにも怪我はなく、事なきを得ていたのは幸いだろう。
このすぐ後、店長は寮以外に居住する他のスタッフの安否確認も急いだという。
しかし電話は回線が混み合い不通。全員の安否確認に時間を要したそうだ。
この時、発生した電話インフラの障害が不安を大きくしたことは、いまも強く印象に残っているという。
店舗の被害は大きく、すぐに営業再開はできない状況。
ただ、パチスロ島は幸いなことに、店全体の中では比較的軽微の被害だった。
そこでパチスロのみの部分営業による再開を決断。決断の決め手は、地元の人に“娯楽”を提供し、元気を出してもらいたいという想いからだ。それが約2週間後の4月末のことだった。
しかしながら、いざ開店となると、「こんな大変なときに営業するのか?」と思われるのではないか?という葛藤があったそうだ。
だが、部分的にでも営業を開始すると、遊技客が詰め掛けた。
そして、営業中には店舗の敷地で炊き出しも行った。その際には、炊き出しに対する感謝の声だけでなく、「(もう半分は)いつ開店するの?」と早期再開を望む声などが掛けられたのだという。そうした声をはじめ、炊き出しを通じて交わされる生のコミュニケーションはいつも以上に嬉しく感じられ、スタッフの励みにもなったという。
炊き出しの風景写真提供:フェスタ宇土店
完全復旧となったのは約4ヶ月後の8月11日。
レイアウト変更などもあり、以前と印象は一新されたものの、明るく地域のニーズにあった活力溢れる店構えとなって生まれ変わった。
また、見た目以外にも変わった点がある。
それが緊急連絡網の強化だ。これは災害時の電話インフラの混乱が大きな教訓となっている。現在ではLINEグループ等、電話以外の安否確認の手段も積極的に取り入れているのだそうだ。
これからについて店長は次のように語る。
「現在があるのも苦しいときに支えあったお客様がいるからこそ。これからもお客様から支持されるお店であり続けるため、今後も日常の努力を絶やさずに営業していきます」
“復興”の壁を乗り越えて語る店長の姿が印象的だった。
【ケースIV:《PA-OH麻生田店》と経営企業「エフ・シー株式会社」の場合】
~被災時の状況~ 被災時:通常営業中 住所:熊本県熊本市北区麻生田1-5-1 スタッフ・遊技客の被害者:0人 状況:通常営業中の被災。前震での被害は軽微だったことと、避難誘導が迅速だったことによりけが人などはなし。 一連の地震では島設備の倒壊、店舗内外壁のヒビ、店内ほぼ全てのガラスの損壊のほか、店舗とその上階の立体駐車場を繋ぐエレベーターの制御室塔屋が崩落。 |
これまで紹介した他のホールと同様、《Pa-Oh麻生田店》においても幸いけが人ゼロ。
遊技客も、スタッフも、それぞれが落ち着いて行動し、大事には至らなかった。
また、スムーズな避難誘導ができたのは、玉積みをしない各台計数機を導入していた点も功を奏したと、話を聞いたM副店長も振り返っている。
その上で、《PA-OH麻生田店》では他のホールと違った視点で震災後の話を伺ってみた。
奇しくも活かされた備え、地域と共存するパチンコホール企業のカタチ
同店の大きな特徴は、その交換賞品の保有量の多さだ。
普段から多くの賞品を取り揃え、多レートの交換におけるニーズに対応している。
取材時にも老若男女様々な遊技客が賞品を手に取っている姿が印象的だった。
日用品、雑貨、食料品はもちろん、生活必需品、消耗品に至るまで様々なラインアップが取り揃えられている。
普段は楽しい賞品選びとなるが、震災時は非常備蓄品として活躍した。
被災者への配給品として、避難所で無料配布されたのだ。
調べてみると、同店の近くには震災後、避難所として使われた小学校、中学校が存在する。配布はいずれの避難所でも実施され、多くの品々が被災者の手に渡ったという。
取材に応えてくれた副店長も、実際に物資を持って避難所に赴いて配布。その際、避難している人たちには非常に感謝されたそうだ。
益城町の仮設住宅
特にお菓子などの“甘いもの”が好まれたと副店長は話す。
こうした物資の無料配布にあたり、素早く判断を下したのは経営会社「エフ・シー」の藤本 祐介社長。
M副店長も配布したお菓子はもちろんだが、配布物は倉庫内にあった飲食物や日用品、雑貨などの全在庫が充てられた。この大胆と思える判断だが、それも地域住民に支えられる企業だからこそできる決断といえるだろう。
また、あまり広く知られてはいないが、パチンコホール企業は災害時の備蓄、防災に対する訓練などを行っているところは少なくない。これは過去の新潟県中越地震や東日本大震災といった未曾有の災害を教訓としているためだ。
それぞれ各ホールがこれら教訓を受けていたため、けが人など人的被害が無かったといわれれば納得できる。
そして、今回の藤本社長の行動も、“来るべき時の備え”として頭の中にあった“防災時の心得”が役立ったといえる。
有事にパチンコ。その必要性とは・・・
そんな貢献活動に従事した《PA-OH麻生田店》がリニューアルオープンできたのは9月8日。先に紹介した他のホールよりも、少し遅い日程となったが、いまだに制御室が崩落したEVは2基中1基が動いていないほか、一部手直しが必要なまま営業を再開させている。
ゆったりした休憩スペースは、常連客同士の明るい会話など地元密着型の「コミュニティースペース」として大いに役立っている。
「そうまでしてでもパチンコホールは営業したいのか!?」と、そう思う人も少なくないだろう。それでも人が集まる“現実”が、日本独自の“大衆娯楽”の存在価値を表していると筆者はイメージする。
帰りがけに商店街に掲げられた横断幕を見つけた。
「がまだすばい熊本、負けんばい上通」
報道も少なくなった現在(いま)、被災圏外に住まう我々に被災者の気持ちは完全に汲み取ることが出来ない。
だが、この光景が物語るように、地元の人々の“復興”はいまだに続いているのだ。
パチンコホールが日々の活力の支えとなっていると願いたい。
DMMぱちタウン第一編集部
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