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諸積ゲンズブール

経験を買う

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公開日: 2018/09/18

尊敬する人を数名挙げろと言われれば、島耕作は間違いなくベスト5には食い込んできます。

イチローのような超人じみた運動能力やプロ意識があるわけでなし、ビル・ゲイツのような資産家でもなし、今は会長となって富も名声もあるけれど元は一介のサラリーマンにすぎず、いつまで経ってもちょっと女にだらしない。人として足りない部分も多いのだけれど、だからこそ読者は島耕作に親近感を覚え、長所も短所も全部引っくるめて人間味のある彼は、十分尊敬に値する人間だと僕は思っています。
 
 
そんな島耕作シリーズの作者である弘兼憲史さんが書いた『男子の作法』という本の中に、「経験を買いなさい」という風なことが書いてありました。これは食・酒に関する章にあった言葉ですが、平たく言えば、和食にしても洋食にしてもちょっと無理して高い店に行ってみることで自分の受け皿が大きくなり、結果、仕事や生き方に奥行きを出してくれる…ということ。
 
 
 
ふむふむなるほど。
 
僕ももう33歳。
 
一人の時はいつも適当な定食屋なんかで済ませているけれど、そろそろ一段、素敵男子への階段をのぼる時じゃなかろうか。
 
 
そんなことを思いながら、先日、とある地方で晩飯を食おうとホテルの周りを散策しておりましたらば、古過ぎず新し過ぎず、なかなか風情のある佇まいをした寿司屋が目に飛び込んできました。
 
 
子供の頃は、寿司といえばもっぱら回転寿司。大人になっても回らない寿司屋はすしざんまいくらいしか行ったことのない僕ですから、一人で初見の寿司屋はさすがにハードルが高い気がします。
しかし、ここで入らなければ明日からもこれまでの僕、ここで入れば明日からは一人で寿司屋に入れる僕となるわけで、一念発起、ええいままよと寿司屋の戸を開き、僕は弘兼先生が言うところの「経験を買う」ことにしました。
 
 
 
 
いらっしゃいませ。
 
 
店に入るなり、静かな店内に職人と思しき男性の低い声が響き渡りました。
もっとこう、江戸っ子じみた感じで「へい、らっしゃい!」的な挨拶じゃないのかと早速面食らいましたが、慣れたフリしてカウンターに腰掛け、女将風のおばちゃんが出してくれたおしぼりで軽く手を拭きながら、とりあえず生下さいと告げると、「すみません、生はないんです」と、面食らったところにもひとつパンチをお見舞いされて、僕は既にダウン寸前。
 
 
バカ野郎、何が生だよ!
魚民に飲みに来てるワケじゃねぇんだぞ!
寿司といえば日本酒だろうが!
 
 
幸いそんな罵声は飛んできませんでしたが、せっかく経験を買いに来たというのにいつもの調子で頼んでいては経験値を稼ぐことはできません。寿司屋に生ビールがないのは普通なのか、それともここの寿司屋がたまたまそうなのかは僕にはわかりかねますが、とりあえず深呼吸して、動揺を感じ取られぬよう細心の注意を払いながら、じゃあ瓶で、と女将に返しました。日本酒、わかんねぇし。
 
 
その後、手酌でビールを注ぎながら、何を頼もうかと周りを見渡すと、いわゆるメニュー表のようなものはどこにも見当たらず、カウンターに陣取ったショーケースの中に新鮮な魚介類が並んでいるだけ。寿司屋にはメニュー表も価格表もない、なんてのは噂では聞いておりましたが、いざその場に出くわすと今まで自分がどんなネタを好んで食べてきたのかが全く思い出せず、数分悩んでやっと出てきたのがコレでした。
 
 
 
 
カンパチ下さい。
 
 
 
ここでボソボソ言ってはつまらんと、まるでカメラが回っている時のようなハリのある声で元気よく、自信を持って注文したところ、返ってきた答えは「カンパチ一丁!」でも「ありがたきぃぃしあわせぇぇぇ!」でもなく
 
 
 
 
すみません、カンパチないんですよ。
 
 
 
 
寿司屋にカンパチがないのが普通なのか、それともこの日たまたまカンパチがなかったのか僕にはわかりかねますが、生もない、カンパチもないで、僕はもう完全にノックアウト。カンパチがないならエビだタコだヒラメの昆布締めだと、ネタの応酬でララパルーザといく気力は当然なく、か細い声で「じゃあオススメは…?」と返すのが精一杯でした。
 
 
 
しかし、素直にオススメを聞いたことで板前さんとの会話が幾分しやすくなり、その後はオススメのネタを握りにするか刺身にするか、はたまた天ぷらにするか…なんていう提案までしてくれるもんですから、こっちも気持ち良くなっちゃって、じゃあ握りでだの天ぷらでだのと頼みすぎた結果、お会計は案の定と言いますかお約束と言いますか、予想の遥か上をいく金額に。
 
まぁ、これも全ては経験代。とりあえずの生をやめようと思えたことと、カンパチがレギュラーメニューではないと知れたことで、きっと僕は、昨日よりも男子の作法を身につけていることでしょう。
 
 

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