ポイズン・元クズ田中
記事一覧へ公開日: 2017/08/26
言いたいことも言えない、こんな世の中だ。隣の台からただよってくるタバコの副流煙を注意しようものなら、逆上して後ろからブスリと刺されるかもしれない。ぐいぐい自分のスペースに割り込んでくる足が邪魔でそれとなくアピールの意味を込めて咳払いをしたら、文句あんのかテメーと胸ぐらをつかまれるかもしれない。いらぬリスクを回避するために、ノド元まで出かかった言葉を今日も飲みこみ、愛想笑いで蓋をする。
家から歩いて5分の距離に、小さなマッサージ屋がある。広く、きれいで、明るい受付の人気マッサージ屋とは異なり、そこは狭く、薄暗いマッサージ屋。料金はボディマッサージが1時間で500円。フットマッサージは1時間で450円。他の店に比べて1割安といったところなのだが、ここのマッサージ屋は唯一、すべてのマッサージ師が資格を取っているとのうわさで、こと技術に関しては他と比べて群を抜いている。
その店のなかでも小柄なおばちゃん。このおばちゃんの技術は一級品で、オレの身体はもう、お前意外に触らせないよ。そんな敬意を表していつも彼女を指名する。この日も大きなソファにゆったりともたれかかり、そのゴッドハンドに身をゆだねたのだった。
お気に入りは、フットマッサージ。第二の心臓といわれるふくらはぎから溜まった毒素を流すように足をもみ、ツボをひとつひとつ丁寧に潰していくかのように足の裏を押していく。
あまりの気持ちよさにうとうとしていたが、シュン、シュンという妙な音で目を覚ました。薄目をあけて彼女をみると、鼻をすすっている仕草がみえた。そうだ、始まりの挨拶をしたときも、そういえば鼻をすすっていた。風邪でもひいたのだろうか。そう思って再び目を閉じようとしたら、彼女が落ちそうになった鼻水を、サッと手でぬぐった。
薄目をあけて、しばらく眺めてみる。右、左、右、左。両の手を駆使してリズミカルにツボを押す姿は匠のソレだ。右、左、右、左、鼻、右、左、右、左、鼻。右と左のリズムを縫うように鼻が入り込み、そしてぬぐった鼻水をその勢いのまま、足裏に塗り込んでいるではないか。右、左、鼻、鼻、右、左、鼻。
マッサージ用の少しとろみのついたオイルと、おばちゃんの鼻水が、僕の足の裏で混ざり合う。恐らくおばちゃんは無意識なのだろう。ベトナムに行った際、フォーを食わせる店でしつこくパクチーを抜いてくれと頼んだにもかかわらず、麺のうえには山盛りのパクチーが乗って運ばれてきた。抜いてくれと言ったじゃないか。そういうと主人は、習慣で手が勝手に動いちまうもんでと悪びれることなく言ったが、おばちゃんのその手も、自分の意識とはまた別のところで動いているのだろうか。
頭で考えなくても、手が勝手に動いていく。匠というのはそういうことなのかもしれないな。そんなことをぼんやり考えていたら、おばちゃんと目が合った。
Good?
たしかにグッドだが、鼻水がついてるよ。そう告げようか迷ったが、そんな指摘のせいで今後、おばちゃんとの関係が気まずくなりたくないし、第一、鼻水を英語でなんと言えばいいのかもわからない。
僕は言葉を飲みこんで、愛想笑いで蓋をした。
あれは鼻水ではなく、鼻から出るアロマだ。そう言い聞かせて、再び目を閉じた。
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