景品交換所の向こう側
記事一覧へ公開日: 2019/08/09
今年の3月に、母方のおじいが死んだ。93歳だったそうな。おじいは数年前から僕が誰なのかわからず、会うたびに「あんた誰じゃったかいのう」と言っていたが、僕が小学生のころのおじいは、田舎のパチンコ屋の駐車場にある、小さな景品交換所のなかにいた。
いま僕が38歳だから、10歳のころは28年前。その当時のおじいは93マイナス28で65歳だったので、警察かなにか(よくわからないけど)を定年していたのだと思う。警察を定年してからの天下りのようなことで景品交換所のなかに入ったのだろうか。そのあたりの事情はわからないけれど、母方の実家へ行くと途中でその小屋に寄り、特殊景品をやり取りする小窓越しにおじいとよく会話をしたのを覚えている。
当時の僕はもちろんパチンコ屋の仕組みなどわからないので、おじいがその小屋でなにをしているか知るはずもないのだけど、時折、小窓越しではなく、古臭い小屋には似つかわしくない重厚な扉を開けて、大量のお菓子をくれたりもした。なんだか小屋のなかからお菓子をくれるおじいをカッコよく思ったものだし、僕がその後にパチンコ屋に興味を持つようになったのは、そのときの記憶が影響しているのかもしれない。
数年前から僕のことを忘れてしまったおじいだが、戦争のことだけははっきりと覚えていて、母方の実家へ行くとよくそんな話してくれた。富士山の真上を飛んで、吸い込まれそうな感覚になった話など、いろんな話を聞いたが、なかでも繰り返し話していたのが、特攻の話だった。
※富士山の上空は気流の関係で飛行も安定せず、吸い込まれそうで、ただただ怖かったという
当時まだ10代だったおじいは、同年代の仲間が次々と特攻へ行くのを見て、悔しかったという。それは、死んでいく仲間に対する悔しさというよりも、自分が選ばれないことに対する悔しさだったそうだ。
自分も特攻に選ばれたい。だけど、操縦の技術が及ばないばかりに選ばれない。そう思ったおじいは、夜寝る前にたらふく水を飲み、用を足さず寝ることで意図的に夜中に目を覚まし、エンジンのかかっていない戦闘機のコックピットで操縦かんをにぎり、必死で特攻へ行くための練習をしたという。
結果、おじいは特攻に選ばれることなく戦争は終わり、それによって僕という存在がいまこの世にある。そして、その話を聞くたびに、僕が楽しくパチスロを打っていられるのも、フィリピンでNPO活動をやっているのも、当り前のことではないのだなあと感じてきた。
8月6日は広島に、本日は長崎に原子爆弾が投下された日だ。そして来週、8月15日は終戦の日ということで、ここセブでも戦没者慰霊祭が行われる。
※マルコポーロホテルの敷地内にあるセブ観音慰霊碑
いま、ITパークというセブでもっとも栄えているエリアは、過去、日本軍が使用していた空港があり、そこから特攻隊が飛び立っていったという。
激戦区だったフィリピンでは52万人もの日本兵が犠牲になったというが、フィリピン人もまた、当時の人口約1300万人に対して、100万人以上が犠牲になったそうだ。
おじいが、なにを思いながらエンジンのかかっていない戦闘機で操縦かんをにぎったのか。リアルな気持ちは僕にはわからないけれど、この時期になると、いつもそんな話を思い出す。景品交換所の小窓の向こうで笑っていた、おじいのことを思い出す。
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