第十七回「みらいの輪」~パチンコ店経営者に突撃インタビュー~株式会社セントラル伸光
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レジャーの多様化とともにパチンコ・パチスロ離れもめまぐるしい。
とかく、依存問題や子供の放置事件などマイナスのイメージを植え付けられているパチンコ業界。
半世紀以上続き就労人口も20万人超という規模だが、世間の風当たりは強い。
様々な要因で店舗数もどんどん減少しており、逆風の只中にいる。
そんな苦境だらけの時代に突き進むパチンコホール経営者の生きざま、考え方について深堀していく。
更新日: 2024/10/07
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大衆娯楽のパチンコ業界。その文化を未来へ紡ぐため、2020年10月に2つの業界団体が合併し成立したMIRAI(一般社団法人MIRAIパチンコ産業連盟)。
本企画はそのMIRAIで活躍する各企業のキーマンにフォーカス。パチンコホールの経営者の生い立ちや普段聞けない生の声を独占インタビューする。
清水 文徳 代表取締役 |
株式会社 セントラル伸光 |
青森県八戸市生まれ |
パチンコ業界の経営者に話を聞く「みらいの輪」。
第17回は、東北4県にパチンコ店を展開し、未曾有の東日本大震災で甚大な被害を受け、津波による消失店舗や水没被害にあうも従業員、遊技客に一人の人的被害も出さずに復興に従事。見事に立て直しをはかり、現在は多くのCSRや社会貢献事業を会社一丸となって取り組んでいるセントラル伸光の清水 文徳社長にお話しを聞いた。
月収10万円からのスタート
DMM:本日はよろしくお願いいたします。早速ですが、清水社長のプロフィールをお教えください。
清水社長:よろしくお願いいたします。私の生まれは青森県八戸市で、中学生の頃に父が仙台に出店したのを機に仙台に移住しました。中高生時代はテニスで県大会に出場し、卒業後は上京して法政大学に入学しました。卒業後にTOEFLの勉強の為、アメリカのボストンへ語学留学しました。TOEFLの勉強が修了した後も、ボストンの大学に入学して勉強を続けようと思っていましたが、その夏に祖父が亡くなり帰国すると父から仕事を手伝って欲しいと相談されました。正直、葛藤はありましたが、悩んだ末に24歳の年に休学することになりました。その年の9月に会社に入社することになり、学校も退学することになりました。同時期に父も会社の改革を行いはじめ、初めて新卒採用にも乗り出し、今の幹部はその時の新入社員も多いです。
DMM:なるほど、今の幹部の方は清水社長とは同期ということでお付き合いが長いのですね。当時の清水社長の仕事はどのような業務をなされていたのですか?
清水社長:本社の営業部の立ち上げと岩手県の大船渡市に新規出店をする準備です。営業部に関しては、それまで本社は経理と財務しか無い状態でした。本社管理での営業を実施するという、私の父である現会長から話があり、新卒を中心に大船渡へ新規出店を企画していくという仕事をしていました。
DMM:新しい時代に合わせて、色々改革されていたのですね。その当時、清水社長はお役職等あったのですか?
清水社長:いえ、一般職です。給与明細には役員報酬と記載されていましたが、月額10万円の支給です。実家から通っていたので、衣食住は事足りていましたけど(笑)。
結婚する前に妻に「預金はいくらあるの?」と聞かれた時には「預金なんて無いよ」と答えていました。流石にこれから結婚するのに月10万円じゃやっていけないということで、父に相談し「ああ、そうだったな」なんて話になりましたね(笑)。結局入社して、その間に店長も経験したのですが、結婚するまで6年間は月10万円の給料でやりくりしていました。父である会長からすれば、家業の手伝いだから小遣いがあれば良いだろうくらいの感覚だったのかもしれませんね。
DMM:今だと笑い話ですが、買いたいものを買えないなど苦労されたのではないですか?
清水社長:車は社用車を使わせてもらってたり、当時は忙しくてあまり服を買うとか旅行するとかもありませんでした。仕事で使うスーツだけは親がプレゼントしてくれましたし、社外の方との会食は領収書を切って処理していました。それ以外は実家ですので、あまりお金を使わない生活でしたね。
DMM:お仕事が忙しかったのもひとつの要因だと思いますが、物欲に囚われないミニマリスト的な考え方は良いですね。
清水社長:会長も何となく若い人は贅沢せず、苦労するくらいが良いという持論もありました。私も大学生時代アルバイトに明け暮れて、道路工事の仕事等、大学に行くよりアルバイトの時間の方が長いくらいでした。学費と家賃は補助してもらいましたが、あとは自分で賄う形でしたね。私がアルバイトを多くやっていると父は嬉しそうにしていましたね。
DMM:お金に関しての管理が厳しい方だったのですか?
清水社長:厳しいというよりは、自分が貧しくて苦労してきた分、経験して得たものが大きかったので、それを私にも経験させたかったのだと思います。
DMM:そういう意図があったのですね。若いうちは苦労を買ってでもしろと言う方針ですね。ただ、流石にご結婚されてからは給料も上がりましたよね?
清水社長:そうですね。結婚を機に給与の話をして、その後に営業部に戻り、部長職としての給料を頂けるようになりました。まあ、それでも家族にお給料を渡すだけですから、私の生活自体はあまり変わっていません(笑)
DMM:私の想像で恐縮ですが、経営者の方やそのご子息ともなればある程度裕福な生活を送ってらっしゃるイメージでした。
清水社長:そのような方もいらっしゃると思いますし、私のような人も多いと思いますよ。
同友会入会から復帰へ
DMM:続いて貴社の沿革についてお尋ねしたいのですが、元々は東洋自動車商会が創業とのことですが、その変遷と現在のFCをはじめとする事業の多角化、同友会との関わりについても教えて頂きたいと思います。
清水社長:元々会長も母も仙台の出身で、私が生まれる直前に自動車修理工場をはじめようという事になり、青森県の八戸市に修理工場を建てて事業をはじめました。その2年後に中古車販売ディーラーもはじめて、ぱちんこ事業は地元の他の企業と共同経営に誘われてはじめたそうです。その後、パチンコ店は手放すことになり、独自でやり始めた1号店がセントラル八戸店です。同店は立地も良く客入りも多かったので、他の地域にも出店をすることになりました。東洋自動車時代に父が東京で買い付けた車を自走して店に持って帰る時に東北の沿岸を通る国道45号線を利用していたそうで、この沿道ならパチンコ店でうまくいきそうだと感じたそうです。沿岸で漁師町が多いところを中心に岩手県から父の出身の仙台まで南下する出店をしていきました。
DMM:それは興味深いですね。何故沿岸に店舗が多いのかと疑問に思っていたので、謎が解けました。パチンコ事業のきっかけにもなった自動車修理販売事業ですが、現在は経営に参画されていないのですか?
清水社長:東洋自動車は八戸のみで店舗を構えており、会長がパチンコ事業で仙台に来る際、当時一緒に事業をしていて、お世話になった番頭さんに事業譲渡しました。
DMM:なるほど、ぱちんこ事業に専念する事を選ばれたのですね。そしてぱちんこ業界に入られてMIRAIの前身である同友会(一般社団法人日本遊技産業経営者同友会)に入られたのですね。入会されたのは会長の時代からですか?
清水社長:いえ、私の代からになります。入会のきっかけは、岩手県の同業の方やお取引のある景品会社の方のご紹介です。当時は私が26歳で、叔父がパチンコ部門のトップでしたので一緒に参加していました。その後、28歳で塩釜店の店長になり、しばらくは幽霊会員になってしまいました。その後、東野相談役(株式会社平成観光 東野 昌一社長)からお声がけを頂いて、戻ることになりました。その時に、同友会の中で、様々な事に対して勉強・研究・意見を出し合う委員会ができていて、私は東野相談役が作られた店舗強化委員会に加入させていただきました。店舗強化委員会は、それぞれの店舗・企業・産業がより良くなるための委員会です。店舗研究でストアコンパリゾンをはじめ、人事交流などで他社の情報を取り入れて店舗をどのように強化していくかという研究をしました。出席するたびに新しい情報を持ち帰ることもできましたし、より良い産業発展の為にという店舗強化委員会の理念に賛同・共感できました。
DMM:それで、同友会に復帰されて、また以前のように活動をはじめられたのですね。
清水社長:そうです。そして当時の高濱 正敏代表理事が就任された際に、私に理事になってくれないかと要請されて理事になりました。
未曾有の震災に見舞われて
DMM:同友会時代から長年会員になられていたのですね。その後、平成23年、前社長から社長を引き継がれた年に東日本大震災が発生したという事ですか?
清水社長:それは逆です。震災が起きたから社長を引き継いだのです。あの「3.11東日本大震災」がおきた前日に私は名古屋にいて、帰りの東海道新幹線が途中で緊急停車し、私は東海地震が発生したのだと思って妻に連絡をしました。そこで、妻から東北が大変な事になっていると教えてもらい、どのルートでも帰れなさそうだったために、途中停車する新横浜で妻に急遽ホテルをとってもらいました。ラジオで情報を聞いていると、津波の情報が全て弊社の店舗のある地域でした。ラジオからは「津波が来ています、宮古、釜石、大船渡、気仙沼、陸前高田・・・」。断片的な情報が錯綜する中、これはどうなっているんだ?どうなるんだ?と、真っ青になっていました。そして、神奈川県でお世話になっている取引業者さんがいたので、帰る手段を一緒に探してもらい、2日後に庄内空港行きの航空便を見つけだし、弟に空港へ迎えに来てもらって何とか帰りました。その時、皆が避難所生活という事で、足りないと言われていた物資を買い込んで向かい、何もできない中でも本社の外で炊き出しでもやろうという事になりました。とりあえず腹が減っては何もできないから飯を食おうと。社員たちにも家族も連れてきなさいと伝え、みんなで「こんなときだから笑っていこう」と話していましたね。
震災で、陸前高田店は跡形もなく流され、気仙沼の2店舗は大人の首の上、パチンコ台の島上まで津波が到達していて、とても営業できる状態ではなくなっていました。何よりも停電もあり、13店舗中で営業できたのが八戸、秋田、盛岡、大河原の4店舗だけで、残りは全て被災か停電で営業できない状況でした。そんな状況でしたが、遊技機メーカーさんはじめ、金融機関や取引先も応援してくれたので、本当に助かりました。また、運よく、震災の2年前に全店地震保険に入っていたので、その保険で息をつなぎました。
DMM:備えあれば憂い無しと言いますが、本当に良いタイミングで保険に加入されていたのですね。
清水社長:そうです。以前も南米のペルーで地震があり、太平洋沿岸は遠方の地震でも津波の影響があるということで、保険と避難経路の確認や訓練等も刷新していたことは幸いでした。ただ親は自分が立ち上げてきた店が流されてだいぶショックを受けていて「やる気が無くなった。あとはお前がやれ」と言いました。ですから、社長就任のタイミングで震災がおきたのではなく、震災がおきたから社長就任になったということです。
DMM:会長が0から積み上げてきたものが、無くなったのは辛い事ですね。ショックの大きさは想像を絶します。
清水社長:そうですね、積み上げたものがパッと無くなるのを目の前にしたので。実際あの時の被害は当社としても甚大でした。
DMM:その中で会長から社長に任命され、立て直しで色々やらないといけない事が山積していたと思いますが、その時はどのように対応されたのですか?
清水社長:その時点で私は専務だったのですが、すでに会長はパチンコ店の運営には口を出すことは無く、ほぼ私が運営責任者としてやっていました。同友会の店舗強化委員会で得た情報を持ってきたり、昔ながらの店舗を少しずつ変えていったりと動いていましたが、いざ社長になって銀行関係は苦労しました。もともと財務状況が良いわけではないため、新規出店も10数年していなかった状況です。社内的に新規出店していけるように、財務内容改善の為に頑張っていこう、という掛け声をかけていました。そして、金融機関も含めて、出店に向けて動いていけそうだね、という矢先での震災だったので、その出店予定分の借り入れの利率も気にしていられない状況で復興の穴埋めに使いました。それでも、半分の店舗が営業できず、最後に復旧した店舗は8か月後で津波で消失した店はそのままです。
DMM:8カ月なんとか耐えられたのですね。
助けてくれた同友会の仲間たち
清水社長:そうです。そして、社長になって金融機関に訪問し、社長就任のお祝いというムードでも無い中で、「よろしくお願いします、立て直して絶対返しますので」と挨拶してまわりました。弊社はこれだけ沿岸に集中しているので、厳しいかなとは思いましたが、何とか金融機関や遊技機メーカーさん、同友会の仲間にも応援して頂きました。その時5月から同友会は松田理事が代表を務められたのですが、松田代表理事と平山理事が会社に来て下さりました。当時ガソリンが不足していて、私も自転車で会社に行っていましたが、お二人も大変な道のりをお越し頂きました。平山理事は地元香川県のうどんを差し入れしてくれて、同友会でたくさんの援助をしていただき感動しました。
DMM:交通も大変な時期に直接ですか?
清水社長:そうです。早く届けるためにと、遠路を同友会の仲間として来ていただきました。
DMM:同友会の絆、繋がりで援助も迅速にできたのですね。
清水社長:本当にそう思います。そしてありえないくらいの多大な支援をして頂いて、感動しきりです。今でも本当に感謝しています。
DMM:東日本大震災は、私を含めて多くの方が経験したことがない未曾有の地震でしたが、その後のコロナも大きな障壁だったと思います。
清水社長:コロナも大きな災厄でした。震災後、徐々に元の状態に戻し、震災前から頑張ってきた新規出店を南相馬店のオープンまでにこぎ着ました。釜石店の移転とオープンもできて、これから1年、2年ペースで立地も規模も大型化しながら新規出店をしていこう、と計画した矢先のコロナ禍です。
DMM:逆風にさらされたという感じですか。
清水社長:逆風と言うより、運が良かったと思います。やろうと思った矢先で、体力がある状態でした。コロナ禍中の遊技機撤去もありましたが、そこも考えて体力を蓄えていましたので、コロナ禍を乗り切れたのだと思います。ギリギリの状態だったら、大変な事になっていたと思います。
DMM:なるほど。ネガティブになりそうな事象ですが、逆に計画して体力を蓄えていたことが功を奏したのですね。その根本を支える企業理念や社是、行動理念に込められる清水社長の想いについて教えてください。
清水社長:以前、店舗に配属される店長たちと話をして、機械の波を見るとか、割数をぴったり合わせる店長が素晴らしいという風潮がありました。しかし、私はお客さんを呼べる店長が素晴らしいのであって、割を合わせる事が店長の仕事ではないと思っていました。下手な新卒採用や教育の誤った価値観で育ってしまう事へ不安があったのです。他の企業の考え方もありますが、世代交代しなければならないと思いました。当時の業界紙で取材されているスター店長はみな20代だったのです。その若い世代を守っていくには「理念」が必要だと感じ、同友会で紹介していただいたコンサルティング会社に協力してもらいました。その進め方は社長が「理念」を決めるのではなく、みんなで決めるという方針でした。震災前に従業員と話をしていたのですが、私たちは地方のパチンコ店ですから来店されるお客様との距離もとても近く、そのお客様みんなを幸せにしたいよね、と。そして人を幸せにするなら、まずは自分たちが幸せじゃないとダメだよね。それが本当の意味での一人ひとりを幸せにすること、もっと言えば自分に関わる全ての人を幸せにすることだ、という理由からでした。
DMM:なるほど。その社員一人ひとりを幸せにする為に、清水社長はどのような事を大切にされているのですか?
清水社長:挨拶や笑顔です。ムスッとした顔だと、周りの人の表情も曇るよね、という事からはじめました。また、仕事は楽しくやろうよという想いもあります。苦しいと思ったら仕事ができなくなってしまいます。震災の時もそうでした。笑顔で楽しくやろうよ、こんな経験滅多にできないからと。そういった事で、店は惨憺たるもので、決算書なんて大変な事でしたが、みんなニコニコしていました。
DMM:さすがだと思います。逆転の発想ですね。当時は開き直るしかなかったのですね。
清水社長:そうです、開き直りもあります。底を見てしまったので、あとは上を目指すしかないなと。そうなると、今まで遠慮してきたことも出来るよね、やってしまえばいいよね、どんどんやっていこうよ!という流れになりました。その時も周りの人に大変助けていただいたので、本当に感謝の気持ちを持ちながら、楽しんでいければなと思います。
DMM:震災があって改めて、感謝や社員同士の協力体制、伸び伸びとなんにでもチャレンジする風土が醸成されたのですね。
清水社長:底を見たのでその経験を活かしています。
DMM:それは今の様々な社会貢献活動や、車いすバスケットボールへの協賛等様々なCSRや地域活性支援等を行う原点・原動力に繋がっているのでしょうか?また、今後の活動の未来図について教えて下さい。
清水社長:そうですね、社会貢献活動やCSRの原点はやはり震災です。何か、社会に貢献したいという想いがあります。所属している県遊協でも赤十字への協力を行っていますが、自分達でも社会へわずかでも尽くそうという考えです。車椅子の寄付や子供たちへの野球観戦シートプレゼント等、微力ながら貢献できればと思っていました。三慶商事の趙社長ほど見識があるわけではないので、自分たちの身近なところからやっていきましょう、という見える範囲での活動からはじめました。多くの方が東北にご支援いただきましたが、やはり特に嬉しかったのは、同友会の仲間からの支援と松田代表理事や平山理事が会いに来てくれて、支援物資やお土産を持ってきてくれた事です。今もセントラル宮古店では冬に駐車場の清掃するときにUPLY(静岡県のホール)のロゴが入ったウインドブレーカーを着ています(笑)
DMM:大事に使われているのですね。
清水社長:他にも店舗用にカップラーメン他、大量の物資を持ってきてくれて、東野相談役は不足していた燃料も運んできてくれました。当時盗難にあうかもしれないと、店長が店舗の金庫から離れられず数日泊まっている店舗もあり、現金を回収して欲しいと訴えていました。社用車や社員の各車からガソリンをかき集め、燃費の良いハイブリットカーにそのガソリンを入れ替えて、その1台で各店舗を回ったりしている状況でしたので、本当に助かりました。その時に受けた恩と嬉しいという感情を身近なところへ記憶に残る様に還元したいと思いました。
ただ、CSRや社会貢献も目につきやすい分野とそうでもない分野というものがあります。たまたまテレビで仙台に全国大会3連覇の車椅子バスケットチームがあることを知り、仙台でこんなに誇れるスポーツ団体があるんだと思い話を聞きにいきました。事故などを経験しながら車椅子バスケットボール界に入って競技していること、スポーツ用車椅子には保険適用制度がなく、チーム運営も大変だったりと色々お話を聞くことができました。それを聞いて、車椅子の進呈を行わせていただきました。ちなみに東京パラリンピックのスタメンは8割くらいが宮城MAX所属選手でした。
DMM:パリパラリンピックでも宮城MAXの選手は多いのですか?
清水社長:東京パラリンピックで引退した選手が多いのでそれほどでもないと思います。ただ、次の世代の選手たちも育ってきていると聞いています。知名度が低いころからスポンサードしてくれたことはうれしいですと言ってもらえて、我々にとっても嬉しいですし、これからも支援を続けたいと思います。
DMM:寄付でも目に付く、目につかないというのは言われてみればそうかもしれないです。その光の当たっていないところにスポットライトを当てることができたわけですね。やはり色々な角度で物事を見るという面は、ぱちんこ業以外でのFC事業など幅の広い分野に進出にも影響があるのでしょうか?新規事業へ挑戦したきっかけや今後の事業展望についても教えて下さい。
清水社長:東北で営業している、東北のお客様にこれだけ助けていただいてる東北の企業として、何かしないといけないと思っていました。ただ、人口減少や高齢化など、お客様に貢献するのはパチンコだけでは限界があるため、その中で貢献できる事業を東北でやっていくという中で模索しているところです。まだ多角経営と呼べるものではなく、暗闇の中を手探りでやってみようというところです。関東でもやりませんか?というお話もいただいて面白いなとは思うのですが、FC担当の社員とは東北の地元の強みを活かしてやっていきましょうと話しています。
DMM:清水社長の中で、ぱちんこ事業以外の柱を作りたいとか、強い事業を作りたいという展望はあるのですか?
清水社長:むしろそのようなものがあれば良いなと思います。今後は今のFC同様に手探りで考えていきたいと思っています。
ぱちんこを地域のライフラインに!
DMM:ありがとうございます。最後に今後の貴社の目標、あるいは業界の展望や忌憚のないご意見、お考えについてお聞かせください。
清水社長:もっとお客様の身近なところにあるもの、楽しく遊技できる環境を提供していきたいと思います。若い世代の取り込みも重要ですが、最近は高齢者の方が遊んで過ごせる施設ではなくなってきているなと感じています。海外のカジノに研修で行った時に、高齢の方がブッフェで食事をとりながらゆっくり遊んでいる姿を見ましたが、そんな憩いの場が弊社の目指すパチンコ店だと思います。
DMM:なるほど。ただ、最近は若年層もスマスロ等打ちにくくなっている面もありますね。特に学生等が気軽に打つのが難しくなってきています。
清水社長:そうですね。経済的要因もありますし、時間遊技という中で、その時間をどのように過ごしてもらうのか。時間遊技のパチンコと勝負のパチスロというイメージがあります。今はパチンコの稼働が落ちてきているのは時間遊技に対しての価値観が落ちてきているのだろうなと。私がいまだに印象に残っているのが大船渡店を立ち上げた時なのですが、同店は飲食店を併設していないのです。そうすると来店したお爺ちゃんお婆ちゃんが自前のお弁当を持ってきてました。それでお昼時になるとみんなで休憩所に行ってそのお弁当を仲良く食べていました。その光景を見て、お客さんがぱちんこを楽しんでくれているし、必要と思ってくれているなと感じました。それは震災後オープンした時も感じました。お客さんも「良かった、生きてたね」と、泣いて喜んでくれたことを今でも鮮明に覚えています。
避難所生活で苦しい中、「パチンコ店を再開してくれてありがとう」と。店内でぱちんこ仲間と再会し、声を掛け合っている姿に感動して店長たちも涙を流していました。反面、昔は大衆娯楽として身近な遊びでしたが、最近は、ぱちんこに対してネガティブなイメージも強くなっているように感じています。
DMM:昔は、身近に遊技する人も多かったのですが、遊技人口の減少とイメージの悪化は比例しているのかもしれないですね。
清水社長:そうですね。ぱちんこをやらない友人と歩いているときに「トイレ行きたくなったから喫茶店行こう」と言われた事がありました。すぐ近くにパチンコ店があるので「パチンコ店で借りれば良いじゃない」と言ったら「あ、そうか!パチンコ店にもトイレあったよね」と、言っていて驚かされました。最初からパチンコ店の候補は友人の選択肢に無かったのです。打たない人のイメージはそうなんだなと改めて感じましたね。
DMM:打ったことのある人、行ったことのある人など私たちからすれば、これほど入りやすくて綺麗で使いやすいトイレは、なかなか無いと思います。地域に必要とされたいというのは他の経営者の方たちも同意見ですね。
清水社長:お客さんにも必要とされたいし、必要としたい相互関係を作っていきたいと思います。地方に行くほどパチンコ店はライフラインですよねと、震災前に社員と話していましたが、震災後に、はしゃぎ声を上げてパチンコを打ってくれているお客さんを見て本当にライフラインだと感じました。これからも地域に無くてはならない必要な一員として求められ続けたいと思います。
DMM:ありがとうございます。社会貢献やCSRも継続されると、認知度も高くなると思いますので、これからも続けて下さい。
編集後記
未曾有の被害を及ぼした東日本大震災。
店舗消失や津波の被害の中、スタッフや遊技客に死傷者を出さず、驚異の回復を成し遂げたセントラル伸光。
逆境を貴重な経験と捉え、底を知るからこそ笑顔を絶やさずに、邁進したからこそコロナ禍も乗り切った現在も地域貢献ができているのだろう。
ぱちんこ産業は、不要不急の産業と揶揄されることも多いが、地域住民に愛され、感謝されることもある。
地域のインフラとして、地域に必要な産業、雇用の場として、その地位向上ができれば業界で働く人の誇りになるに違いない。