パチンコ・パチスロ特集

第十九回「みらいの輪」~パチンコ店経営者に突撃インタビュー~株式会HOG

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みらいの輪とは

昔のように勝てない!面白くない!
レジャーの多様化とともにパチンコ・パチスロ離れもめまぐるしい。
とかく、依存問題や子供の放置事件などマイナスのイメージを植え付けられているパチンコ業界。
半世紀以上続き就労人口も20万人超という規模だが、世間の風当たりは強い。
様々な要因で店舗数もどんどん減少しており、逆風の只中にいる。
そんな苦境だらけの時代に突き進むパチンコホール経営者の生きざま、考え方について深堀していく。

更新日: 2025/03/10

 

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大衆娯楽のパチンコ業界。
その文化を未来へ紡ぐため、2020年10月に2つの業界団体が合併し成立したMIRAI(一般社団法人MIRAIパチンコ産業連盟)。

 

 

本企画はそのMIRAIで活躍する各企業のキーマンにフォーカス。パチンコホールの経営者の生い立ちや普段聞けない生の声を独占インタビューする。


呂 相治 取締役副社長

株式会社 HOG

パチンコ業界の経営者に話を聞く「みらいの輪」。

第19回は、大阪に本社を置きながら埼玉県や千葉県等、関東にも多くの店舗を運営。今年で創業54年を数える株式会社HOG。

現在は、デイサービスや有料老人ホーム等の介護サービス事業や飲食店等、事業を多角化している企業だ。今回はそのHOGの第二創業期に、社会人経験0で入社した呂副社長に当時のお話を聞かせていただいた。

思いがけずにスポーツ優勝チームのメンバーに!

DMM:本日はよろしくお願いいたします。早速ですが、呂副社長のプロフィールをお教えください。 

呂副社長:よろしくお願いいたします。生まれは1969年で今年56歳になります。子供の頃は学校から帰ると外で遊んだり、スポーツもいくつかやりました。

DMM:スポーツはどのような競技をされていたのですか?

呂副社長:小学校ではサッカーをして、中学生でバレーボール、高校で空手部に入っていました。

DMM:色々なスポーツをご経験されていたのですね。

呂副社長:当時は部活に入らない帰宅部だと仲間内でも心象が悪かったので、色々模索していました。色々エピソードはあるのですが、小学生の時に在籍していたサッカー部は厳しくて、練習中に水が飲めなかったり、うさぎ跳びをさせられたりしていました。滅茶苦茶練習させられていましたが、そのお陰でサッカーの大会でチームが優勝した経験もあります。その反動で、中学では何が一番楽な部活だろうと仲間内で話していて、バレーボール部の練習が「楽」らしいという噂で入りました。ところが、同じ時期に入ったチームメイトにバレーボールの才能のある子がおりましてね。その子に触発された先生がヤル気を出しはじめて、急に練習が厳しくなりました(笑)。それでバレーボールの大会も優勝までいきました。

DMM:小中とジャンルは違えど優勝というのはすごいですね。

呂副社長:その後高校時代は、また仲間内で集まって次は何がいい?と話し合い、空手部に入部しました。入学した高校でメジャーな部活はラグビーやサッカー、ボクシング部で、入学当初の空手部は地下練習場で地道な練習でした。ところが、入部して間もなく空手の団体が立ち上がり、空手に力を入れていくという話になりました。途中で辞めてしまいましたが、意図せず振り回されていましたね(笑) 

DMM:所属する部活がどんどん強豪になったのですね。それにしても優勝するというと相当厳しい練習だぅたのでしょうか?

呂副社長:練習は厳しかったです。ただ、まわりの人に恵まれました。才能のある人が多くて引っ張られていきました。今考えるとツイているのか、いないのかわかりませんね(笑) 

DMM:小中高と大阪で、大学も大阪だったのですか?

呂副社長:大学は東京で、大学卒業後に渡米して遊学していました。帰国して30歳過ぎに会社(HOG)に入りました。 

渡米の末に、社会人未経験で入社!

DMM:比較的長い期間渡米されていたのですね。

呂副社長:そうですね。その後自分でも会社(HOG)に入る自覚もあり、会長である父から入社を勧められ、素直に従いました。

DMM:HOGの創業はどなたが始められたのですか?

呂副社長:元々は東大阪市で祖父が鉄のリサイクルをやっていたところをパチンコ店1号店にしたのが始まりで、私が当時2歳頃の話になります。当時、祖父も存命でしたが、パチンコ店は父が主体として始めたと思います。そしてその2階が事務所で、私もその事務所に住んでいました。

DMM:店舗の2階や事務所兼住居という方は多いですね。他の経営者層の方からも、よくお話をうかがいます。

呂副社長:当時のホール関係者の方は多いと思います。寝る時に店舗で流れる『蛍の光』を子守歌代りに聞いていました。夏休みの朝、ゆっくりしていると開店の軍艦マーチが聞こえたりしました。トイレでも有線のBGMが聞こえていたので、演歌にもすっかり詳しくなっていました。初めて自分の部屋をもらった時にも、大金庫が部屋に置かれていてその横で寝起きしてました。夜寝ていたら店長がその横で大金庫からお金の出し入れをしている光景は今では懐かしい思い出です。その後に大阪市内で店舗を少しずつ増やしていって今にいたります。

DMM:アメリカから帰られた時にはお父さんが社長で経営されていたのですか?

呂副社長:いえ、父は会長で、叔父が社長をやっていました。今の社長は当時営業本部長でした。現社長は父の姉である伯母の息子で、私とは従兄弟になります。

DMM:呂副社長が帰国されてから店舗を増やされたのですか?

呂副社長:昔店舗を自社で増やしてもいましたが、他社と協業という形で運営していた店舗もありました。そのピーク時に比較すると今の方が店舗数は少ないです。その後、時代の流れで紆余曲折あり、スクラップ&ビルドを行い、現社長が本部長から社長になる時に再び店舗を増やしました。埼玉県には元々秩父市に30年以上前から店舗がありました。たまに「埼玉には最近お店を作られたのですか?」と聞かれることがあるのですが、秩父市に30年以上前から店舗がありました。大阪が本社ですので、埼玉にも昔から店舗があることを知られていない方もいるようです。

DMM:なぜ、大阪発祥でそれほど前から埼玉県に出店されていたのですか?

呂副社長:それが決定的な理由については私にも謎です。ただ、地縁があったのかもしれないですね。

DMM:現在は関東の方が店舗数ありますね。

呂副社長:そうですね。知らない間に関東の方が多くなっています。コロナ禍中に大阪の店舗を売却した事もあり、関東と関西での店舗数も逆転しています。元々は大阪の方が多かったのですが。漠然としてですが、埼玉県に出店した事情については、会長に少し土地勘があったのか、場所を見た時にここならいけると思って出店したのだと思います。その後、現社長が社長に就任して、第二創業期という形で店舗の整理やリニューアルを行い、企業理念の策定や業務の近代化をしていきました。その際、パチンコに染まっていない他業界の人を集め、今までの慣習に囚われない新しい考え方を模索していました。現在の執行役員達です。

DMM:その当時というのは業界経験者の採用が多い気がしますが、思い切った経営判断をされていたのですね。

呂副社長:その改革の途中で私が帰国して入社し、すぐに大阪の店舗に入りました。大学が東京でしたので、隣接する埼玉県の東松山等にも土地勘があった事も要因です。それが1998年頃の話になります。それまでは、他のパチンコ店同様、いわゆる個人商店のようなものだったので、そこからの脱却を目指していたさなかです。会社としてきちんとして、人事制度も整備し、報酬形態も透明性を持たせる取り組みを始めていました。ただ、その時の私は社会人経験がありませんでしたから、異質な新入社員でしたね。会社組織というもの自体が、未経験で比較できないのでわからない状況でした。

DMM:なるほど。第二創業期というドラスティックな改革中にご入社されたのですね。社会人未経験という中だと、色々な事が目まぐるしく変化して大変ですね。  

窮地から助けてくれた幹部たち

呂副社長:そうですね。ぱちんこ業界も店舗のこまごまとしたことも実体験で経験を積めばわかってくるのですが、営業でどこに焦点を当てていくべきなのか、お客様の満足感を満たすにはどうすれば良いのかなどは手探りでした。大目に見てもらってはいたと思いますが、当時の営業本部長にはいつも怒られていましたね。今思えば、当たり前と言えば当たり前ですけど(笑)。そして、実は過去3回もクビを宣告されたことがあります。

DMM:えぇ、社長にですか? 

呂副社長:いえ、当時の社長からもありましたが、当時の会長からもありました。 

DMM:過去にお話を聞いている方にもクビを宣告された方もいらっしゃいましたが、なかなかハードなお話で驚きます。

呂副社長:そうですね。同じように親からクビだと言われる方のお話も耳にしたことがあります(笑)。今振り返っても無茶苦茶な話ですね。何の根拠もない、感情論の親子喧嘩です。特にこの業界ではよくある話だと思います。

DMM:同感です。創業者の親世代からすると自分の立ち上げた会社という自負が強く、思い通りにならない事へのもどかしさが感情的になる要因なのかなと思います。

呂副社長:その状況の中で、営業幹部たちはよく頑張ってくれていたと思います。入社当時は朝から出社して途中で中抜けし、再び戻り閉店までお店にいて、お客さんにも「お前、ずっといるな」と言われていましたね。

DMM:入社されてしばらくは店舗に出られていたのですか?

呂副社長:そうです。ずっと店舗に居ました。それから店長職になって、さらに店につきっきりでした。

DMM:入社されて何年目くらいで店長になられたのですか?

呂副社長:入社して2年目くらいです。何もわからない状況で、やっぱり無茶苦茶でしょう?

DMM:ぱちんこ業界以前に、社会人経験も無いのに結構な無茶ぶりですね。業界特有の計数等の知識も無いままですか?

呂副社長:さすがに計数は教えて貰っていましたが、それができていても店舗運営がうまく回るとは限りませんので、色々迷惑をかけていたと思います。その時のスタッフにはだいぶ助けてもらっていました。

DMM:店長職はどのくらい従事されていたのですか?

呂副社長:2、3年くらいやっていました。その後、本社勤務になり違う事業部に転籍してから、他の企業と共同経営していた神奈川のパチンコ店舗に異動しました。異動が多かったので、私自身が業績に貢献していたとは言い難いです。その後、埼玉県小川町の店舗のリニューアルで異動しました。その時に現埼玉県遊協の趙理事長(株式会社三慶商事の趙社長)(https://p-town.dmm.com/specials/3581)と知り合い、埼玉県遊協の組合活動にも参加するようになり、色々な方と出会い勉強させてもらいました。

DMM:埼玉に異動されてたのはおいくつくらいの時ですか?

呂副社長:36、7歳くらいで、5年程パチンコと飲食、コーヒーワゴン等の事業部にも在籍しました。大阪でも現場は介護等も含めて会社の事業部を全て経験しました。

DMM:全ての事業部を経験されるのは貴重な体験ですね。現場の経験と併せて、多くの人との付き合いもご経験されている中で、MIRAIの前身である一般社団法人日本遊技産業経営者同友会(以下同友会)への加入経緯についても教えて下さい。

呂副社長:同友会にはコロナ禍前に入会したのですが、その前に埼玉県から本社に戻ってきて、大阪府遊技業同組合他、団体や組合活動を私が担当していました。埼玉県は社長が組合長をされていたのですが、総会などは私が出席していました。ただ、大阪の情報はわかっていても埼玉でも店舗運営していますし、全国的な広い視野や情報を得る必要があると感じていました。そんな折、社長から「同友会に行ってみないか?」と声をかけられ、私も必要性を感じていたので入会しました。

DMM:今もそうですが、入会時に推薦人が必要だと思いますが、どなたにお願いされたのですか?

呂副社長:埼玉の趙社長に入会しようと思う旨、連絡を入れたのですが、推薦人が必要とは知らなかったのです。そこで、株式会社アスカの呉社長と株式会社三慶商事の趙社長に推薦人になっていただきました。

DMM:そうだったのですね。同友会では入会当初から理事として参加されたのですか?

呂副社長:入会当時は年度の途中からということや、まだ勝手がわからないので理事はやっていません。その後、同友会とPCSA(パチンコチェーンストア協会)が合併してMIRAIになり、その時に自薦で理事になりました。

DMM:なるほど。その後、理事になられてから変わられたことはありますか?

呂副社長:理事になる前が短く、理事になってから委員会活動を任せられました。その際、最初は委員長の下に就くはずでしたが、委員長になられる予定の方が退会されてしまい、いきなり委員長を拝命する事になりました。正直大変でしたね。ただ、MIRAIに入ってから「こんなにスゴイ人達がいるんだ!」と痛感しました。理事になられている方はもちろん、賛助会員の方も含めて、会社経営だけではなく、物事の考え方や生き方などお話を聞くとビックリする事ばかりです。同業他社さんでも人材の層が厚く、個々の専門性の高さについても感嘆する事が多いです。そのような気づきはMIRAIに入っていないとわかりえなかった事です。もちろん、そのような情報を得る事も一つの目的でしたが、業界を変えていく上で一つの地域や小さな単位では限界があると感じました。そう考えていくと制度的に変えていかないといけないと思います。その中でMIRAIのやっている事が、広範囲でしっかりしていた印象もあり、関わっている方も真剣に取り組んでおられるので、私もそこに携われればと思って理事に立候補しました。 

DMM:なるほど、確かにそうですね。今でも理事の方で、色々な事を変える事で自社へのメリットにもなると考えられている方もいらっしゃいますね。なかなか理事でも大変なご経験をされたのですね。続いて遊学から帰国し、社会人未経験の状態で入社されて、苦労されたことや印象に残るエピソードなどについて教えてください。

初めての新店舗立ち上げ

呂副社長:苦労という事は無いですが、自分自身の内面的な事には悩んだりしました。印象に残るエピソードとしては、埼玉に居た時に閉店している店舗の情報を得て、敷地が一部雑木林のようになっていた物件がありました。ここはいけそうだと思い、土地建物の売買契約からオープンまですべて携わった時は大変でしたがやりがいを感じて楽しかったです。 

DMM:店舗開発からオープンまですべてに携われたのですか?

呂福社長:そうです。その後もスタッフとして勤務もしていました。何もない状態から工事にも立ち会って、工事関係者とも仲良くなり、台設置や販促にも携わりました。業者との取引や組合との付き合い等、色々な分野での知見も広がりました。弊社としては初めての大型店で、失敗できないとうプレッシャーもありましたが、オープニングスタッフのアルバイトさんも献身的で、人にも恵まれて印象深い思い出です。店の装飾POPも皆で手分けして手作りしたりと準備をして、あまりにも忙しすぎて全員きちんと休めておらず、疲れて床で泥のように寝ていたりしていました。その光景が深夜のセキュリティカメラに写っていて写真が会長の目に触れてしまい「何してんねん!」と大目玉も食らいましたね(笑)店を創るのも運営するのも一人ではできないですから、多くの人に尽力してもらって成り立っている事を痛感しました。苦労もありましたが、それ以上に達成感もあり、店もうまくオープンできて本当に良かった思い出です。

DMM:それは壮絶でしたね。ただ、現場で0からスタートできた貴重な体験でもありますね。

呂副社長:そうですね。懇親会が開かれ、皆で食事をする時にみんな必死過ぎて「そういえば朝から食事してなかった!」と思い出して、立ち食いに近い形で食事をして会長を驚かせたこともありました。今だったら色々ダメな事も多いですけれど。(笑)

DMM:そうですね。労働環境とか安全配慮義務とか問題になってしまいそうですね。ただ、昔は他の業界も含め一生懸命に取り組むとか、ひたすらがむしゃらに頑張る風潮でしたね。その流れで会社も順調に経営されてきて、事業も拡大されてきたと思うのですが、現在の3つの基軸となる事業についてのウェイトやこれからの展望についても教えていただけますか?

呂副社長:今はパチンコと飲食と介護を展開していますが、飲食は1店舗だけで、パチンコが9店舗、介護はデイサービスが3つで、M&Aをさせていただいた有料老人ホームが1社、ホーム施設が2棟と介護の紹介センターを運営しています。今後の事業もパチンコだけではなく、介護事業も増やしていこうという考えでいます。飲食も色々チャレンジしましたが、今はリーズナブルな焼き鳥屋を1店舗の運営です。こちらもチャンスがあればとは考えています。ただ、原材料費の高騰もありなかなか大変で、15年以上営業している今の店舗はこれからも続けていく予定です。この焼き鳥屋も黒字になるまで時間はかかりましたが、今はLINE会員が5000人以上もいます。長く続けてきたので、親に連れてこられたお子さん世代が今は顧客として来店してくれているようです。そう考えると地域で愛されている店に成長して、ありがたいなと思います。 

DMM:地元のお客さんに愛されていますね。その黒字化したノウハウで、2店舗、3店舗と広げていければ仕入れも安くできそうですが、そのあたりはいかがですか?

呂副社長:実は過去に出店したのですが、あまりうまくいきませんでした。そこはやはり、「人」ですかね。それが飲食店の難しさかもしれません。

DMM:同じことをやっていても場所や人で違いますか?

呂副社長:そうですね、今の焼き鳥屋も黒字になったきっかけは店長が代わったことでしたので、色々な要素で売り上げも変わると思います。飲食店が難しいと感じるのはそういう理由です。1度失敗するとリカバリーできない事もありますし。

DMM:そうですね。飲食店なら1度行って不味かったらもう行かなくなりますね。

呂副社長:そうです。パチンコだったら台が替わればという期待感もありますけど、飲食店で不味かったらなかなか難しいですね。タピオカ屋も始めましたが、すぐに撤退しました。他の事業も同じですが、飲食店も片手間でできるものではないですね。

DMM:社内で新規事業を開拓する部署はあるのですか?

呂副社長:担当部署は無いです。介護も社長が案件をもってきました。私も最初に介護をやるという話にはビックリしました。うちはパチンコ屋ですよ、って。ただ、話を聞いたら採算が取れそうな事やパチンコ店を含め、同じサービス業として多店舗展開・他業種へのチャレンジという形ではじめました。デイサービスは様々な規制もありますが、何とか介護事業は続けられているので良かったと思います。今後も介護は色々な方向で考えていくかもしれません。ただ、2030年問題なども考慮に入れて対応していくと思います。老人ホーム会社も良い会社で、M&A後も既存のスタッフさんには引き続き勤務していただいています。

 

新しいムーブメント

DMM:ありがとうございます。人に恵まれるのはかけがいのない事ですね。最後に今後のぱちんこ産業や貴社の目標・将来展望について教えて下さい。

呂副社長:今までぱちんこ業界は、色々な危機をなんとか乗り越えてやってきたわけですが、今後は抜本的に変えないといけない事も出てくると思います。例えば貸し玉の上限金額が決まっているだとか、消費税の問題などの事もあると思います。インフレが続いていったときに4円の貸し玉料金が適正なのか、税率が上がっても価格転嫁ができないなど制度的にも変えないといけないと思います。それは値上げではないですが、外からは値上げに見えるでしょうし、消費税問題等を真摯に考えれば値上げではないはずです。

DMM:同意見です。貨幣価値は時代によって変わりますので、それが固定して変えられない辛さと言うのはあると思います。

呂副社長:そうですね。消費税込み1玉5円となれば、射幸心をあおるわけではなく、税金と貨幣価値に合わせる話ですから。

DMM:それがホール企業単体で話すと射幸心という事になってしまいがちですよね。

呂副社長:そうです。MIRAIでは委員会などでも話題に上がりますが、遊技機も高い。高いのは部材価格高騰もあり、保通協に支払いもあるので仕方ないかもしれませんが、コストを下げて欲しいと思います。またメーカー側からすればホールの要望に合わせた機械を作っているという意見もあると思います。その機械でお客さんがつかないのはホールの使い方と感じる事もあると思いますし、それぞれの言い分もあります。ただ、ホールからすれば欲しいと思った時に手に入れられない、機歴による入荷時期のバラつき等は制度的にメーカーもホールも一緒に解決していかないといけないと思います。そのような部分はひとつの産業として、共通の利害として協力して解決していけるようにタッグを組むことが大事だと思います。また、遊技機の共通部品も仕様拡大をして代替品も利用可能にするなど、増産もしやすいようにメーカーとホールが一緒に考えていくことを目標にするとか、そういう事を考えていかないといけないのかなと思います。遊技人口減少についてもそんなに高い投資金額でお客さんを通わせていたら、絶対増えない、産業が壊れてしまうという話も耳にします。いずれにしろメーカーもホールも協力し合って、この産業の為になるムーブメントがあってもいいのかなとは思います。違う視点でお互いの現状を語り合ってこれからどうしようと話し合える場所があってもいいと思います。それを踏まえて、会社もお客様に愛されて信頼される形で存続できる事を目指したいです。もちろん、お客様に関わるスタッフもうちに来たことによって仕事の楽しみや、来て良かったと心から思えて幸せになって貰いたいと思います。

DMM:今後、事業の拡大などについてはいかがですか?

呂副社長:チャンスがあれば考えます。ぱちんこ事業の拡大について今は難しい部分もあると思います。ただ地域に根差して地域の方からは愛してもらえると思いますので、喜んでいただける事ができればと思います。また、海外へのつながりも作りたいですね。他の経営者の方からお話をうかがう事がありますが、海外との接点を持っている経営者の方が多いと感じています。私も海外にいたので、海外については憧れというより身近に感じます。そのような感覚を持っている方も多いので、フットワークを軽くしていきたいですね。海外に拘るわけではないですが、視野の広さや考えは、色々と幅の広さに繋がると思います。具体的な計画はありませんが、そのような接点があると面白いのでチャンスがあればとは思います。

DMM:ありがとうございます。今はインバウンド需要もあり、来日外国人も多く海外がより身近に感じます。外国人からみたぱちんこ産業はどう映るのかは知りたいですね。また、パチンコ運営企業が海外で新規事業も興していますので、様々な角度で視野を広げる事は重要ですね。

編集後記

大阪と埼玉、遠く離れていて接点も無いように見えるが、果敢にもフロンティア精神で開拓した創業者。

創業56年という歴史の中で、個人商店から企業としての変革、事業の多角化など大きな変化を遂げてきた。

1企業の生き残りだけではなく、産業の生き残りを考えることは、俯瞰で観察できるグローバルな見識によるものだろう。

守るべきものと壊すべきもの。バランス感覚が問われる時代の変革に、柔軟に対応する新たなるムーブメントは必須になるに違いない。

「ぱちんこ産業」の未来と、カルチャーとしての「ぱちんこ」がこれからも持続し続けるのは、情熱をもった経営者がいる限り潰えないだろう。

 

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