昔のように勝てない!面白くない!
レジャーの多様化とともにパチンコ・パチスロ離れもめまぐるしい。
とかく、依存問題や子供の放置事件などマイナスのイメージを植え付けられているパチンコ業界。
半世紀以上続き就労人口も20万人超という規模だが、世間の風当たりは強い。
様々な要因で店舗数もどんどん減少しており、逆風の只中にいる。
そんな苦境だらけの時代に突き進むパチンコホール経営者の生きざま、考え方について深堀していく。
更新日: 2026/02/12
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大衆娯楽のパチンコ業界。その文化を未来へ紡ぐため、2020年10月に2つの業界団体が合併し成立したMIRAI(一般社団法人MIRAIパチンコ産業連盟)。
本企画はそのMIRAIで活躍する各企業のキーマンにフォーカス。パチンコホールの経営者の生い立ちや普段聞けない生の声を独占インタビューする。

| 岡本 麻男(おかもと あさお)社長 |
株式会社 回天 |
パチンコ業界の経営者に話を聞く「みらいの輪」。
第21回は、香川県、埼玉県でパチンコ店を展開する株式会社回天の岡本社長にお話を聞いてみた。祖父の代から受け継ぎ、香川県でパチンコ店を経営。岡本社長の代に関東にも進出しつつ、香川県遊技協同組合では次世代の担い手として社会貢献活動にも家族で参加するなど精力的な活動をしている。

DMM: 本日は、よろしくお願いします。岡本社長のプロフィールをお教えください。
岡本社長: よろしくお願いします。私は1978年生まれです。子供のころはサッカーをしていて、プロサッカー選手になりたいなと思っていました。中学生のころに香川県大会で優勝し香川県選抜に選ばれ、全国ベスト4になったこともあります。
DMM: すごいですね。
岡本社長: ただ、全国でベスト4になりましたが、その時サッカー選手の道はあきらめました。私のポジションはゴールキーパーだったのですが、他にも上手い人がたくさんいる中で「飯を食っていけない」と感じました。自分の中で一番良い成績の時に、プロサッカー選手になる夢をあきらめたのです。
DMM: えっ、そこから夢が膨らんでいかなかったのですか?
岡本社長: サッカーで高校への推薦のお話もいただいていたのですが、お断りして、チームメンバーと同じ高校には行きたいと思っていました。ただ、みんな県内屈指の偏差値が高い高校を目指していて……私は高校受験に失敗して第一志望の高校に入れませんでした。 希望しない高校に入学しましたが2カ月で辞めてしまいました。親には苦労を掛けたなと思います。
DMM: 学校を辞めた後にはどのように過ごされていたのですか?
岡本社長: その後、イタリア料理店でコックをしたり、大工の見習いをしたりしておりました。一生懸命働いてもせいぜい20万円ほどの給料でした。そんな時、父から「大検を受けて大学に行け。大学時代は素晴らしい人との出会いや色々な経験ができる、人生で一番素晴らしい時間なんだ」と言われました。 そこまで言われて「なら行ってみる」となった際、いきなり目の前で予備校の入学金含め70万円をポンと出されて驚きました。当時、4カ月働かないと稼げない金額を目の前に出されて、「敵わないな」と思いました。 そのことがきっかけで予備校に通い、大検の試験を受けて大学に入学しました。入学したのは大阪商業大学というところなのですが、色々学ばせてもらいました。中でも「ギャンブルの社会学」という科目があり、当時の学長の講義でした。実家がパチンコ屋なので興味が湧き、歴史も含め学べる機会がありとても面白く興味深かったのを覚えています。

パチンコとの出会い
DMM: 実家の家業であるパチンコ店を継ぐきっかけはいつ頃芽生えたのですか?
岡本社長: 私の人生の転機は人に影響を受けることが多かったのですが、子供のころ父親から直接「家業を継げ」とは一度も言われませんでした。ただ、曾祖母、祖父・祖母からは長男の私が「家業を継ぐのだよ」とは言われていました。その当時はその言葉を素直に受け入れられてはいませんでしたね。 転機は、大学1年生の時に曾祖母が亡くなったのがきっかけです。曾祖母の言っていたことに報い、継ごうかなと思ったのが始まりです。私は幼少の頃から曾祖母が大好きだったので、その影響は大きかったと思います。その後、大学4年生で卒業後にパチンコ屋で働こうと思い、在学中に大阪・難波のパチンコ屋さんでアルバイトをさせてもらいました。当時、高価交換の強豪店が近隣にできてお客さんが減り、店長も人が代わりアルバイトの人数も減らされるなど、強豪店ができたときの苦しさを最初に味わったのがそのアルバイトの時です。 パチンコ店員も島端にいるだけで接客と呼べるような対応がされていないホールも多い時代でした。ただ、私が働いた企業は立派な本社ビルもあり、面接官に「大学生なら、1年後、2年後に卒業して企業での採用面接があると思いますが、このアルバイトの面接も同じように受けてください」と言われ、非常に真面目な先鋭的な会社だなという印象でした。進学もアルバイトも転機の時は自分の判断よりも人からの影響が大きく、最初は曾祖母、次は祖父、次いで入社した会社、次にこの会社で父に、そして同友会(一般社団法人 日本遊技産業経営者同友会の略称。現在の一般社団法人MIRAIぱちんこ産業連盟の前身団体)に入会する際には平山剛社長(香川県遊協代表理事、グランド商事アドバンス代表)にお誘い頂いて……自分が変わるきっかけは人との出会いで変わってきたなと思います。私も人に影響を与えられるようになれればいいなと思います。 先ほどお話した中学生の頃にサッカーで急激に伸びたのも顧問の先生のお陰です。お世話になった方々に共通しているのが、上から目線で見るのではなく期待してくれて、その期待感を感じたときに自分は頑張れるなと思います。 私も気が強い気性で喜怒哀楽の差が大きい面もありますが、気長に自分も成長したいし、従業員にも成長してもらいたいと思います。自分が変わるきっかけが人なので、自分もそのような人になりたいと強く思って働いています。

DMM: なるほど。きっかけは人からの期待感だったのですね。大学生活は、お父様の言われた学業とアルバイトで充実されていたのですか?
岡本社長: そうですね。就職を見据えてパチンコ店でアルバイトをしていた他、レコードを集めて友人たちと大学近くのカフェでDJイベントを行っていました。回を重ねるごとに口コミで友達が友達を呼んでくれて満席になり、最後には大阪難波で一番大きなハコを借りてイベントを行えました。ただ、同時にその時にお客さんを呼ぶ難しさと、メンバーの人間関係、それを解消したりする苦労と楽しさも知りました。
DMM: DJの活動は学生時代で終えられたのですか?
岡本社長: はい、学生時代でスッパリ辞めました。その後、卒業し九州のホール企業に就職しました。店舗数の多い都市、パチンコの盛んな地域、地方都市等、将来地方の中小企業を運営するにあたり、自分の勉強のためにいろいろ情報を仕入れて考えました。大手のパチンコ企業も受けましたが、パチンコが盛んな九州のホール企業に面接に行った際、その企業のホール店舗が溢れんばかりの満席だったのです。大阪・難波の店でも、どこも満席のお店は見たことがありませんでした。空き台札を店員さんが島上の幕板に挿すと同時に、空き台を探しているお客さんが島端からサーっと歩いてきてすぐに座っていくのです。当時稼働率も日本一で、「こんなパチンコ屋見たことない、ここで働きたい」と思いました。ナショナルチェーンに入って勉強することと、地方の店舗で予算をつけて頑張ることを比較したときに、私的には後者の方が魅力的に映り、迷いなく応募しました。 面接の時に、九州には縁もゆかりもないですが非常に魅力的なパチンコ店で就職したいと思ってきました。そして、「実は実家もパチンコ屋で、30歳頃には退職して実家を継ぎたい」と正直に話し、就職させてもらいました。 後で聞いたのですが、人事の方が社長にそのまま報告されたそうで、「実家に帰って店を継ぐ意思があるなら、一生懸命仕事も頑張るだろうし本人の為にも良いだろう」ということで採用していただけたと聞きました。入社してから改めて感じましたが、やはり稼働率日本一なので、開店時間には即満席でとても大変でした。それと同時に充実した日々を送らせていただけました。 夢中になったサッカー以上に、沢山のお客様を接客することへの喜びがありました。毎日残業していましたが、それまでの人生で一番濃密で充実して、ファイティングスピリットを維持して勉強できる会社を作られた社長は素晴らしいと今でも感謝と尊敬をしております。 そしてその社長は「人」に厳しいのではなく「仕事」に厳しい方で、万事徹底しており、特に掃除に関してはトイレもピカピカにして、遊技台も毎日新台をお客様に提供する気持ちで磨き上げて、接客・掃除を一番大切にしていました。そんな折、私が29歳になったばかりの時に祖父が倒れて入院しました。後に祖父が「私にも会社を継いで欲しい」と願っていたことを父から聞き、その後実家の会社に入社しました。
DMM: 九州時代に貴重な体験をされたのですね。岡本社長がパチンコに初めて触れたのはいくつぐらいの時なのですか?
岡本社長: 大学生の頃になります。原体験としてパチンコ屋に足を運ぶ時って、友達か先輩に誘われないと行かないと思います。ある日興味があるからと、いきなり行く人は少ないと思います。私も一番最初は先輩に誘われて行きました。当時、「パルサーなら2万円あれば勝てる」なんて言われていました。 ちょうどやり始めたのが4号機全盛で、卒業するころに『サラリーマン金太郎』や『獣王』や『アラジン』があって、どんどん遊技機の波が激しくなっていく頃でした。今は昔のような技術介入等が少なく、機械も4号機、5号機、6号機と変わるたびに全ての台がなくなってしまうのは何とかうまくできないものかなと考えてしまいますね。

DMM: 今、私の周りではBT機(ボーナストリガー)が話題で、昔打った機種のリメイク版のような機種も出てきており、同年代のパチスロファンが盛り上がっています。
岡本社長: BT機が良いなと思うのが、私たちのような中小ホールでも、ちょっと時間ができたとか、1~2時間でも気軽にお客さんが立ち寄りやすいような機械だと思っています。非常に期待できるのではないかと考えています。
DMM: 1時間の瞬発力でいえばBT機の方が高い機種もありそうですね。
岡本社長: そうですね。お客さんが1,000円球を借りて、短時間遊技で10,000円の賞品を持って帰ってもらえる経験をしてもらわないと面白さが伝わらず、新規ユーザーが増えていかないです。私たちが何とかしないといけないとは思いますが。

DMM: 全日本学生遊技連盟でノンユーザーの学生に「なぜパチンコをやらないの?」と聞くと、「勝てない」とか、「5,000円使って何も起きませんでした」という回答が返ってきます。
岡本社長: そうなるとやってられないですよね。私も学生時代に30,000円を投資して負けたときには「この店に30,000円とられた!」と本気で思いました。 それで、「このリーチ目が来たならもう少し打った方がええで」と隣で打っていたおばちゃんに言われて、打ち方でも遊び方でもパチンコ屋の高いハードルをいかに下げるかが大事だと思います。打ち方のアドバイスをパチンコ店の店員はしてくれないですし、店員もそのお客さんが初心者かどうかわかりません。常連のおばちゃんなら、サンドにお金の入れ方も知っているし、大当たりして困っていても「こうやったら玉抜けるんやで」と教えてくれたり、「このボタン押したら従業員が来てくれんねんで」など全部手取り足取り教えてくれます。そういう人が居ないとパチンコは成り立たないと思います。今は、遊びの幅も増えて、金銭的余裕も減少してきた中で、ぱちんこ業界はお客さんとどのような接し方ができるんだろうか? ひとつの答えとして、店と従業員がいかにお客さんと近くなれるかがお客さんの満足度を高めることにつながると思います。何かあれば「岡本君呼んで」と言われるくらいの距離感も大事だと思います。本当の理想はその接客で売り上げが上がったり安定することが理想だと思いますが、遊技産業なので「勝った」「負けた」もありますし、理想と現実のギャップが難しい面もあると思います。ただ、大阪難波のアルバイト時代も九州のホールで働いていた時も、大手のホール企業が近隣に出店すると厳しくなります。実家のパチンコ屋に戻ってからも色々試行錯誤したこともあります。大手さんではできないお客様のニーズを拾おうということで、1円パチンコや5円スロット、0.5円パチンコや2円スロットの導入などもいち早く行いました。もちろん大手さんも同じように追随してくると差別化は難しくなります。例えばですが、貸し玉料金を上げるなら射幸心を下げても良く、短時間で遊べるバランスが大切だと思います。 今のパチンコ店は演者の来店や新台入れ替えくらいしか集客ツールはありませんが、昔は新台入れ替えが少なかったので、自分も含めスキマ時間に好きな台を打ちに行っていたと思います。たまにある新台入れ替えでも新台が確保できず打てなかったら、自分の好きないつもの台を打っていたり、新台にありついて打てて面白かったらまた打ちに行っていたと思います。今と違い「新台を打ちに行く」ではなく、「好きな台を打ちに行く」という行動だったと思います。 もっと良い方法があるんじゃないかとは思うのですが、なかなか0から1を生み出すのも難しく、1円パチンコもそうですが、他の店の真似事から始める部分も多いと思います。「良い方法があれば教えてください、見に行かせてください」と言って、それをいかに嚙み砕いて自分のものにしていけるかだと思います。
他エリアへの進出について

DMM: 埼玉県戸田市のマルキ戸田は岡本社長が出店されたお店なのですか?
岡本社長: そうです。以前は違う法人さんの店舗でしたが、お話を頂いて現地を見て出店しました。地方で人口が減少していく場所での苦しさを知っている中で、人口の多い場所に出店したいという思いがありました。実直に細かいことを行うことが性に合っているので、関東でも試してみたいという思いがあって挑戦してみました。
DMM: マルキさんは、他の法人さんに変わった時にもマルキの店名だったと思うのですが、いつ頃経営を始められたのですか?
岡本社長: 店舗譲渡の際に譲渡先の社長と面談させていただいて、もともとの歴史ある店名を継承させていただきました。
DMM: 香川から離れた店舗ですが、特に埼玉にというわけではなく、人口の多い場所で勝負したいというのが条件だったのですか?
岡本社長: そうです。地元香川県はもちろんのこと、九州の宮崎県や関東の茨城県、そして東京都でも物件情報をいただいたのですが、条件が合い、比較的人口の多いところでやりたいなということと、関東に進出してみたいなという思いと条件が合致した場所ではじめました。 当時、私が42歳だったのですが、香川県内では4店舗営業しており、そこでの先が見えていました。このまま人口が減少してどうしようもなくなったら1店舗ずつ閉店していくことになるだろうなと。 それはリスクを取らない選択肢もあったと思います。弊社は不動産も飲食も他の事業を何もやっておらず、ぱちんこ業界1本のみだったので織り込み済みなことなのですが、そのまま何のリスクも取らずに続けていても何となく面白くないなと。これから私が20年、30年生きていくことを考えると先が見えてしまって、社員にも夢がないし、私も何を語って生きていけばよいのかなと。そこで一気に2店舗展開して、採算が難しい店舗を撤退して整理しました。きっかけはコロナ禍ということもありましたが、中小企業の場合そのような逆張りの面もありましたね。
DMM: コロナ禍では大手も止まっていたので、物件情報も出やすかったのかなと思います。
岡本社長: そうですね。比較的物件の金銭面でも安かったと思います。それまでコツコツやってきて、このあとは何もしないで店を閉めていけばいいかなと思った瞬間に「このままでは面白くないな」と思い、オールインしようと思いました。 ただ、周りの人はたまらないですよね。いきなりそんなリスク取るの?となりましたけど。しかし、全国展開している大手さんでも最初は1店舗から始まったわけです。私は別にそこまで多店舗化するつもりはないですが、香川県の西に店が3つあり、東の高松に1店舗で、いずれ厳しくなるのはわかっています。次々に閉めて、「終わったか…」とあっけなく終わるのは面白くないだろう、と。
DMM: なるほど。大きな野望ではなくても、そのまま何もなくなるのはつまらないという思いなのですね。ところで、貴社の沿革についても深堀りさせていただけますか?
岡本社長: パチンコ屋としては古い方です。祖父の代からはじめて、私で3代目になります。曾祖母が日本に来て、その後祖父も日本に来て、日本でなたね油の圧搾製造と販売をしていました。当時は今のようにサラダ油などが無くて、豆腐屋さん、魚屋さんと同じように料理用の油の小瓶を販売する油屋さんという商売があり、貿易自由化になるまで生業としていました。その後、貿易自由化で食用油が大量に生産・輸入され成り立たなくなり、祖父の知人に勧められてパチンコ店「平和会館」という手打ち式パチンコ店を始めたのがきっかけです。 その後、近くに「回天」という店舗を作り、今は会社名も回天になっています。

DMM:社名の回天とはどのような由来なのですか?
岡本社長:「回天」という名称は、祖父が神道を信仰していて、「世の中を変える」「物事の真偽」などの意味を持ち、祖父と父の信仰する神社で頂いた名前になります。 その後、屋号が平和会館から回天に変わり、香川県の多度津町からはじまり隣の丸亀市に2店舗目、3店舗目オープンと増え、合計4店舗になりました。その後、最初の1店舗を倉庫にして3店舗運営にしていた時に私が戻ってきました。 その時に父が高松市にも出店したいという意思を聞き、マーケット的になかなか厳しいよと進言したのですが、「いつか高松でやるのがワシの夢やった!」と言われて、戻って早々に1店舗を高松市で開店することとなりました。その後マルキ藤が丘店とマルキ戸田店をオープンさせて、今年2店舗を閉めて、今はまた4店舗運営になりました。
DMM: そうだったのですね。色々と歴史があり興味深いですね。岡本社長がお父様から代替わりされたのはいつ頃になりますか?
岡本社長: 2014年になります。
DMM: MIRAIは、その前身の同友会の時からご入会されていましたよね。
岡本社長: そうですね。グランド商事アドバンスの平山社長に誘われて、入会させていただきました。私は組合活動や団体活動が苦手な方なのですが、影響を与えてくれる人に弱くて(笑)。 はじめ私は「組合や団体活動が苦手なのです」というお話をさせていただいたのですが、平山社長が「この業界の未来の話をしている」とおっしゃられました。「2030年にぱちんこ産業は、100年を迎える。その時に自分は色々なものを人に譲っていかないといけない。その時に若い人たちにどのように引き渡していくのか」ということや、「同友会(現MIRAI)には、すごい人たちが大勢いて、自分も30代ころから多くの人に可愛がってもらっている。色々な勉強にもなり、どのような人と接するかで変わるのだよ」と。そして「それは業界の為でもあり、自分の為でもあり、今のままではこの業界はよくならない」など、色々なお話、そして業界全体の将来像の話をしてくださいました。事実、同友会(現MIRAI)入会させていただいて、前代表理事(現相談役)の東野昌一社長の精力的で未来志向かつ面倒見が良い人柄にも感銘を受けました。現代表の金光淳用社長の理知的で分析力が鋭く素晴らしい推進力にもぱちんこ業界の将来を感じさせていただいています。
そして、平山社長が香川県遊協に出席されるようになり、今までの県遊協の運営以上に多くの情報が組合員に伝わるようになりました。そのおかげで香川県遊協は、今一番まとまりがある組合と自負しています。前理事長の中尾元紀社長と現筆頭副理事の文基源社長を中心に参加企業は皆さん素晴らしいです。その平山社長のリーダーシップは自社の利益だけではなくて、業界の未来のことや、こうなるべきという夢・正論を堂々と皆に話してくれて、こんな人はなかなかいないと思います。 私の父が亡くなる間際に、「色々な人に会ってきたけれど、平山さんのように正論を堂々と皆に言える人はなかなかおらんよ」と話してくれていました。そして2021年、今際の際で最後に会いたい人がいるか尋ねました。父は「平山さんに会いたい」と言ったので、アポイントまで取らせていただいたのですが、残念ながらコロナ禍まっただ中で、かつ私のスケジュール調整も難しく面会が叶わず実現できませんでした。 私の中で影響を与えてくれているのは恩師、次に九州のホール企業。そして父。今は平山社長に大きな影響を受けています。その間にも曾祖母の影響でパチンコ屋をやろうとか、祖父の死で実家に戻る決心がついたりと、岐路に立つときには誰かの為に頑張ろうと思う時が多いですね。
ユーザーファーストへの想い

DMM:ご実家に戻られて回天にご入社されてから、多くのエピソードを体験されていますが、その中でも苦労されたことを教えていただけますか?
岡本社長: 苦労というと難しいのですが、私たちの世代は運営側としてぱちんこ業界の良い時代を知らないことですね。私が店長になったときはすでに5号機時代です。ただ、どう見てもぱちんこ業界は世間との乖離があり、機械代や人件費等含め実際の売り上げは賞品を交換した部分ですが、業界は貸し玉料ベースでの売り上げを見がちです。最盛期の30兆円市場もしかりですが、実際は私たちが球を貸しているだけで、モノを交換=買ってもらった時が初めて売り上げが上がるのですが、貸している玉の金額にすり替えてカウントしてしまっており、そこがこの業界の良くないところだと思います。他の業界では損益計算書上の純利益は5%や10%、20%あれば素晴らしいとなると思いますが、ぱちんこ業界は1%、2%だと思います。例えばカジノでは遊技環境や設備がとても素晴らしく、レストランやホテルのグレードも高いですが、パチンコ店はどうかと。今まで遊技台に費やした金額は莫大な金額ですが、その投資金額を店舗の外観・内観含めお客様が快適に過ごせるための設備に投資できていれば、どれだけお客様の減少に歯止めがかかったのかなと考えてしまいます。 例えばカジノでは、マシンの入れ替えはそれほどありませんし、バカラの設備投資額も知れています。 我々の業界が「ユーザーファースト」ということをどれだけお客様に伝えることができるのかということになりますが、現在のぱちんこ業界はそれが下手なのだと思います。やはり一番大きいのは機械代で、面白い台があればお客様は来てくれます。これは純然たる事実です。これから遊技機の検定期間が5年になるとか、認定含めて10年になるとか、新しい取り組みで11年目から自動車産業の車検制度のようにしたり、毎年メーカーさんに車検のように出す代わりに長く使えるようにするとか、色々な方法も模索できると思います。ただそこで一番大事なことは、良い台を長く使い続けることでファンを増やしていくことが重要で、遊技機メーカーさんと寄り添っていくことが重要だと思います。お客様の笑顔があふれるお店にしたくない店長も社長も、おそらく日本中どこにもいないと思います。 メーカーさんも利益を出さなければお客様に楽しい台を提供できなくなりますから、利益を出すことは必要です。ただ、新台を売って利益を出すだけではなく、長期運用しても利益が出せるような仕組みがどうにか作れればなと思います。 それはきっと他業種にヒントがあると思います。自動車の残価設定のような売り方をはじめ、様々な販売方法ができるかもしれませんし、長く置いておける台が増えれば1円パチンコや5円スロットのような低貸しをしなくてよかったと思います。メーカーさんホールともに知恵を出し合ってよりユーザーファーストになれるように作り変えたいし、みんなが良くなるようにしていかないと若者が来ないと思います。私はそのためにやれることはやるつもりですし、お客さんが増えたら楽しい業界になると思います。難しいですけど、できたらいいですよね。
DMM: ユーザーファーストは重要ですね。いちユーザーとしても非常に同感できます。
岡本社長: そのために色々な人に意見を聞きたいです。遊技機購入後に、台あたりいくらかを保守メンテナンス料としてメーカーさんに還元できる。その代わりに長く使えて、ホールも長期使用していても保守料金を抑え利益を確保しやすく、お客さんもお気に入りの台を長く遊べて設定や賞球数のボリュームも多くなり楽しめると思います。 私も2時間くらいあればちょっと打ちたいな、と思っても実際は短時間での勝負が難しかったりすると遊技の幅が狭くなりつつあります。
DMM: 今は甘デジとかも厳しいですね。
岡本社長: そうですね。昔はとても気軽に仕事帰りでも安心して打ちに行けましたけど、今はできないですね。本当に若者の声は貴重で、「5000円で何も起こらないからつまらない」という声を聞いて自分に置き換えると、同じくそれなら昔の自分もパチンコに行かなかったと思います。 5円スロットや1円パチンコは値下げしているのですが、それでもユーザーが減っていくという現象があり、パチンコは過去最高の玉単価になっています。
DMM: 玉単価に関しては過去3000万人いたファンのうち、2300万人のマーケティングを無視して、今残っている700万人の為のマーケティング結果なのではないかと感じてしまいます。
岡本社長: 5個賞球で楽しんでいた人を、3個、2個賞球と削って、25個交換で等価にする。ラッキートリガーで1個賞球にする。昔、1個賞球なんてキツ過ぎてダメだと言われていたことをやる。
DMM: お金を使ってくれる人だけをどんどん選ぶような状況ですね。

岡本社長: 射幸性を高めても青天井のカジノや公営ギャンブルに近づいてしまいますし、パチンコは短い時間でも楽しめる場所にする方法は機械以外でも無いかなと。 市区町村との防災協定で地域防災拠点にしたり、酷暑の指定暑熱避難施設(クーリングシェルター)にしてもっと地域に根差して、多くの人に支持して貰える方策はあると思います。地域の公序良俗の観点からも、もっと地元の人に気軽に立ち寄ってもらえるようになるといいと思います。
DMM: 今までの業界は顧客の囲い込みは上手くできても、新規の顧客を増やすことに目が向いていなかったと思います。今はその新規顧客の掘り起こしも徐々に増えてきたなとは感じます。
岡本社長: もっと多くの老若男女や元ユーザー、ノンユーザーの意見にも耳を傾けていきたいですね。
DMM: ありがとうございます。岡本社長の今後の事業の展望について教えてください。
岡本社長: その日、その時を全力でやった結果が今ですので未来のことと聞かれると難しいです。とてもシンプルな事ですが、少なくとも私の会社に関わっている社員や家族には幸せになって欲しいと願っています。 会社理念は設けてないですが、会社をどうするかの前に従業員には、心の勉強をして欲しいと常に思っています。もう少し話をしますと、私の好きな言葉に「一隅を照らす」という最澄の言葉があります。片隅の誰も注目しないような物事に、きちんと取り組み、大きく世界を変えようとするのではなく、まず目の前の事や今自分にできる事を一生懸命やり続ける。そうすることで、結果的に家族や会社、社会を明るい未来にする光になるような社員が増えればと思います。先程の展望や事業計画の話がありましたが、これからもチャンスがあれば出店もできたらと漠然と思ってはいますが、それも全部ご縁だと私は思っています。尊敬する人や企業様からの導きや家族の協力も得られると信じています。私自身経営者に向いていない面もあると考えてしまうこともありますが、私を取り巻く人の為になら何でも頑張れるのでこれからも継続してやっていきたいと思っています。
DMM: 経営者の方としては強いこだわりや拡大していく野望は控えめなのですね。
岡本社長: そうですね。あまり欲が無い方だと思います。車とか家とかに対する欲も少ないですし、趣味も少ないです。私が持っている高級品といえば、保管してある祖父の形見のロレックスの腕時計くらいです。モノに拘るくらいなら、飲みに行って同行する人に楽しんでもらう方が良いかなと思います。 父は他界してもお金は残さなかったですが、家族と会社と社員を残してくれてありがとうと思いました。10代、20代の頃は、ブランド物のバッグを持ちたいとか、ベンツに乗りたいという思いはありましたが、1度経験すると「足るを知る」というか、もう満足しましたね。

DMM: お子さんに会社を継がせたいという思いはいかがですか?
岡本社長: 本人がどうしたいかですね。継いでくれたらありがたいですし、そうでなければその時に考えます。自分も父の時に経験しましたが、お金を残してくれなくて良かったなと。残されたら、兄弟仲が悪くなっていたかもしれません。
DMM: 岡本社長はご兄弟がいらっしゃるのですね。
岡本社長: 3人兄弟で、私が長男で妹と弟がいますが、二人とも賢くて。妹も東京の大学に進学し、弟も医学部に進み今は医者をしています。 父も「兄弟で同業種はやらせたくない」と言っておりまして、弟には「医者になるか?」と言って、弟も「わかった」と応え、本当にその通りになりました。

DMM:身内での相続 争いの話はよく聞きますよね。
岡本社長: よくありますよね。親父はそうしなかったので、私もそれに倣おうとも考えています。
本音で生きていく人生観

DMM: なるほど、争いの種は残さないということですね。事業展開についてですが、お金を残さないまでも新店舗や他の新事業等も人とのご縁があればやるかもしれないというお考えでしょうか?
岡本社長: そこは出会いじゃないですか。私はその人に酔う傾向がありますので、例えばうどん屋さんの社長と知り合って、意気投合すればやると思いますし、パチンコ店も条件がそろってこの人と一緒にやりたいと思えればやります。 そういう出会いがあればまた会社も変わるかもしれません。それまでは、毎日目の前のことに全力で取り組んでいくと思います。 大義名分をかかげたり、建前で繕うということが私は苦手で、気楽な方が好きです。家族と食事したり、気の置けない友人とお酒を呑んだりしているのが一番の楽しみです。
DMM: 建前は必要な場面もあるのかもしれませんが、そればかりになって本音が交わされなくなるのも問題だと思います。お客さんや同僚の顔を見ないで、社内の上司の顔色ばかり見たりしていると、仕事以前に大事な人との信頼関係が構築できないですね。
岡本社長: 同感です。建前ばかり繕うと、会社や人間関係にもいずれハレーションが起きます。本音を言えばそれらは全て取っ払ってもらいたいですね。
DMM:この業界に限らず、本音で言わない業界や会社もまだまだあると思いますが、やはり透明性は大事だとお考えなのですね?
岡本社長: それはリーダーで決まると思います。先ほどお話ししたように、香川県遊協も平山社長が代表理事をされてから変わったことも多いです。「平山社長は本音で言っているんだな」「この業界を残したいとか今のままじゃダメだとか、未来の為にこの人本気で思っているんだな」と感じたときに、人は動くと思います。私もみんなの為にとか、業界全体の為になんて事は考えたことがあまりなかったのですが、そこが変わるというのは人の力だと思います。 そのような人が現れてきたら、個々の縄張り意識もなくなり、大きな目標に対して一緒になれると思います。そういう人を少しでも真似ていきたいですし、業界全体を変えるということを一人二人が言ったところで、単なるクレームにしか聞こえないかもしれませんが、みんなを巻き込んでホールもメーカーさんも含めて売り上げ・利益をどう担保していこうかと、大きな潮流を作っていける取り組みをしていきたいですね。
地道ですが、その活動を業界人ひとり一人が推奨し、県遊協はじめMIRAIでも発信していければ、ぱちんこ業界の未来が開けると考えています。

DMM:ありがとうございます。実直に今を生きること、陶酔できる人を見つけられることも一つの才能であり、努力でもあると思います。参考になりました。
編集後記
ぱちんこ業界に関わらず、現在は多角経営を推し進める企業が多い中、祖父の代からの本業に専念し日々目の前の業務を淡々とこなす。
与えらた職務に真っすぐに挑み、実直に歩を進める岡本社長。
一見、保守的にも感じられるが、天職として一つの事に専念するということも忍耐が必要であり、ある意味モノづくりの職人気質にも通ずる。
人の助言を受け入れ、素直に取り入れる純粋さ、積極的なボランティア活動を通して周りへ還元する姿勢は見習うべき稀有な存在と感じた。






















